旗本森川氏の所領は、森川一族で幕末まで豊田郡・岡田郡内で所領がみられる。幕末では「旧高旧領取調帳」によると、森川采女領として本豊田・曲田村があり、森川長次郎領は豊田村、森川主税領は篠山村、森川織部領には向石下・杉山村があった。元禄期以前の寛文期に石下には、森川重名(下総守・織部家)や俊勝(主税家)の所領が形成されていたのであり、さらには元禄地方直しによって森川昌勝(采女家)が本豊田、曲田、上蛇、肘谷村などへ入ってくる。また元禄十三年(一七〇〇)には森川氏屋(長治郎家)が加養、豊田、袋畑村などに入ってくるのである。
森川下総守重名
重名は寛永五年(一六二八)将軍家光に拝謁し小姓組番、書院番を務めた。寛永十一年に常陸国信太郡で五〇〇石を与えられたのち、書院番頭から小姓組番頭へ進み、寛文二年(一六六二)には御側となり、三〇〇〇石を領した。寛文四年には庭普請の奉行を務め、同年六月に下総国岡田郡内で三〇〇〇石を加増され六〇〇〇石となっている。この重名の領地としては、向石下村・杉山村・鎌庭村・鎌庭新田・古間木村・五箇村・蔵持村・篠山村・村岡村・皆葉村などがあった。この後、享保十年(一七二五)に岡田郡の知行地は武蔵国埼玉郡の内へ領地替えになった。
森川主水俊勝
寛文十一年重名の養子俊勝は兄の摂津守重高の六〇〇〇石の知行地のうち、武蔵国埼玉郡・下総国岡田郡のうちで一〇〇〇石を分知され寄合に列した。そのため篠山村では寛文十一年に、森川主水(俊勝)と摂津守(重高)との相給となっているのである。
俊勝の知行地としては、篠山村・三坂村・花島村などが考えられる。俊勝はその後、小姓組番、書院番を務め、享保八年(一七二三)には小姓組番頭となり、享保十一年には西丸の新番頭へと進み、同十四年には田安宗武の御伝となり、従五位下土佐守を叙任した。享保十七年七〇歳で没している。