石下に伝わる陣屋跡

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「字陣屋敷ヨリ字横町ニ亘ル」、これは明治期に編さんされた『新石下村沿革誌』の新石下村の陣屋跡の記事である。
 この沿革誌によれば、現状は方一一〇間くらいで陣屋敷とよばれ、明治八・九年の頃はその東境に老松の並木が三、四本あったという。この陣屋敷は慶長六年(一六〇一)に伊奈備前守忠次が谷原の開発に着手し、慶長十四年になると伊奈半十郎忠治がかわって、この地に陣屋を設け、寛永十二年(一六三五)まで二七年間地方政務の用に使ったという。
 その「陣屋敷」は現在でも小字として残っており、現在の新石下稲荷神社一帯である。はたして伊奈忠治が実際に陣屋を構えたのかどうかは今となっては知るよしもないが、小口家の先祖書き(「小口先祖新田開発由来」)の中にも「孫兵衛屋敷に伊奈備前守様の御陣屋立つ」とあって、近世初期に幕府代官伊奈忠次により、陣屋がおかれたことを記してある(長瀬泰弘家文書)。
 

Ⅰ-7図 稲荷神社の欅(新石下)

 伊奈忠次にしろ、あるいは忠治にしろ二人とも当地には関係の深い代官頭であり、陣屋設置は谷原開発と関係深かったことがうかがえるのである。
 伊奈備前守忠次は多賀谷領六万石の没収の後、幕領となった多賀谷領および結城秀康転封後の結城領・山川領を、一円的に支配を行なった。「慶長六年辛丑年同国へ御国替遊ばされ候、其後御城破却に相成り、翌七壬寅年始めて御陣屋を立て為され、御代官伊奈備前守御支配と相成り候」。これは、元禄五年(一六九二)の「結城本郷町屋鋪地子御免之由来」の一節である(『結城市史』第二巻近世史料編)。
 慶長六年結城秀康の越前転封後、結城の城は破却され、翌年には陣屋が設けられて幕領(天領)支配が始まったのである。幕領となった結城領・山川領さらには多賀谷領をも含めて一円支配を行なった。
 破却された結城の城跡には陣屋が設けられたというが、そこに忠次自身が来たかどうかは不明である。しかし、忠次は秀康の転封後、直轄領となった結城・猿島郡などの北下総地方を検地しており、支配も忠次があたっている。さらに鬼怒川・小貝川流域には、検地後の忠次の寺社領証文が大量に発給されており、結城地方は、北関東の忠次の支配拠点の一つであったといえる。
 鬼怒川・小貝川流域の氾濫原、谷原の開発や、結城での忠次の動向を考えると、石下にも陣屋が設けられ、伊奈配下の代官手代がその任にあたったであろうことは十分考えられるであろう。