谷原の開発と有力農民

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関東では武蔵の荒川、元荒川、綾瀬川、古利根川(中川)、庄内古川、江戸川流域のほか、利根川流域や鬼怒川、小貝川流域などに膨大な氾濫原が広がっていた。この低湿地の開発と治水事業にあたったのが幕府代官頭(関東郡代)伊奈忠次、忠治である。
 伊奈忠次は慶長九年(一六〇四)には常陸国真壁郡黒子用水堰(開発高二〇〇町歩)、慶長十五年には常陸国茨城郡千波湖用水(備前堀、開発高九八〇町歩)を開さくしているが、近世初期の新田開発や河川改修は徳川幕府の権力基盤をより安定化させる上で重要課題であったといえる。
 忠次の開発方法は、慶長期に在地の有力農民や寺院を積極的に利用し開発にあたらせている。新田の開発者に対しては、開発を請負わせるかわりに諸役免許の特権や一定の鍬下年季の特権を与えたりして、開発後には検地などで田畑の所有を確定する一方で開発請負人に対しては、功績として一定の田畑や屋敷地を与え、除地の特権を与えている。寺院勢力の利用の場合にも、開発すべき一定の土地を寺院に与え、開発後に改めて寺領として寄進するという方法を取っており、在地の有力農民を利用しての開発方法と同じである。
 忠次の開発では、次の忠治の時代のような大規模な新田開発ではなく、主に中世以来の古村の、持添新田的開発が主体であったといえ、形態的には戦国期の開発方法を継承している(和泉清司「近世初期関東における新田開発」『駿台史学』五六号)。
 鬼怒川と小貝川とに挟まれた低湿地帯、氾濫原はヤワラ(谷原)と総称され、「常陸谷原」「豊田谷原」「相馬谷原」などと呼ばれていた。この湿地帯に慶長期以降開発の鍬が入れられるのである。
 

Ⅰ-8図 慶長13年の大学助宅開発手形(増田務氏蔵)と向石下の現景

 石下地域の場合でも、近世社会に入り、兵か農かの選択を迫られ、農民として在地に土着した土豪的な有力者が多数存在していた。それには向石下村の名主として、譜代下人を持ち大経営を行なっていた「増田大学」や、結城晴朝や秀康に仕えたという「小口主計」、あるいは「こつちやう(国生)の二郎右衛門」、さらには鎌庭村の新田小保川村の開発を願った「飯島玄蕃吉久」などがいた。彼らは皆、谷原の開発に関係した者たちである。では、それぞれの者たちの開発の様子をみてみよう。