向石下村大学助

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慶長十三年(一六〇八)三月十五日、向石下村の大学助(増田大学)は前頁写真のような伊奈備前守忠次の開発手形を発給された。それにはこう書き記してあった。
 
  今度ひたちやわら新田精に入れ、過分に発し御奉公申すに付て、屋敷分としてやわら一町歩永く出し候
  間、作り仕るべく候、弥新田精を入れ発し候様に才覚仕るべく候者なり、仍て件の如し
     慶長十三年                                    印
      申三月十五日                               伊備前(花押)
         向石下
           大学助
 
 増田大学(大学助)は、慶長十三年に伊奈忠次によって谷原開発の賞として、屋敷分一町歩を免除されたのである(増田務家文書)。
 この慶長十三年三月十五日には、大学助と同じように谷原の開発にあたっていた者たちに同様の文言の開発手形が発給されている。それには、「常陸屋わら」で開発にあたった上蛇新田(現水海道市上蛇町)の伊右衛門は屋敷分として七反歩を免除され、館方新田の三郎右衛門も「とよ田屋わら」の開発の賞として屋敷分一町歩を免除されている(和泉清司『伊奈忠次文書集成』)。このように同月日の同文面の開発手形が一斉に谷原開発者に発給されたのである。
 増田大学助へ与えられた免除地一町歩の土地は、慶安五年(一六五二)三月二十八日の田地譲り渡し証文に「伊奈備前守様より、先の大学名主を務めるに付て、心労分として一町歩を免除する御墨付をくだされた」という文章がある(増田務家文書)。名主役の心労分としての免除地一町歩とは、おそらく谷原開発の際に屋敷分として免除された一町歩のことであろう。
 この大学助(大学)は向石下村から舟で鬼怒川を渡り、対岸の地先に広がる谷原を開発したものと考えられる。毎日舟で渡り新田開発に従事したとは思えず、おそらく開発のために谷原に屋敷を持ったか、あるいは小屋がけをして、譜代下人たちを動員して開発を行なったのではないだろうか。当時の開発技術からしてまだ古村の持添新田的な開発にすぎず、伊奈忠次の大学助にあてた開発手形には「ひたちやわら」とあるが、これは小貝川下流の筑波、伊奈町方面をさすのではなく、石下の鬼怒川東岸の地先の湿原のどこかをさすものと考えられる。
 また、「谷原」は鬼怒川、小貝川の氾濫原一体の総称であることや、寛永期に忠治の発給する開発に関する史料の文言に、谷原は「常陸谷原」と統一したいい方をしていることなどや、先の開発技術的な面から考えても、増田大学の着手した場所は、そう遠くはない古村の地先の湿地帯の部分であると思われる。