小口孫兵衛

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次に小口孫兵衛の場合をみてみよう。「小口先祖新田開発由来」(長瀬泰弘家文書)によると、小口主計は紀州新宮小口村の出身という。結城晴朝、秀康に仕え、秀康の越前転封には一緒に越前へ赴いたという。その後また立ち戻り、友人の高徳助左衛門をたよって谷村あたりに田地屋敷を買い取り、高四〇石余の百姓になったという。
 嫡男の伝内は親と不仲で勘当の身であったが、石下あたりで塩を売ったという。新田開発については、慶長六年(一六〇一)閏十月に伊奈忠次より書付けを賜ったが、伝内は親主計の名前にてその証文をもらったので、谷村へ参り、主計に事の委細を話し勘当を許されたとある。
 開発にあたっては、公儀より扶持を与えられ、その上諸役免除となったといい、孫兵衛(伝内のことか)の屋敷には伊奈忠次の陣屋が設けられたという。
 この開発状況については由来を書き記した小口家の先祖書が伝える数字なので定かではないが、孫兵衛(伝内か)は新田開発に務め、新石下村一六〇〇石のうち、孫兵衛持高七〇〇石余、免除地一町歩、原宿村や豊田村など他村での持高が二〇〇石あまりあったという。その小口家には男女下人が一三〇人おり、馬一〇疋、牛二疋、屋敷四軒あったとも記されている。
 また、孫兵衛は西福寺を菩提寺として創建し、飯沼弘経寺一〇代照與上人を迎えたという。その他、村内に大日堂、妙見八幡宮、稲荷宮、側鷹八幡の四社も建立したという。
 

Ⅰ-9図 西福寺境内にある小口家の墓

 小口主計の武士身分としての伝承、孫兵衛(伝内か)の大経営の様子や、菩提寺の創建などは、土豪的な在地の有力農民の実態を今によく伝えていよう。
 小口孫兵衛の経営は、新石下村のみならず周辺地域にも大きな影響力を持っていたようである。たとえば、寛永期以降開発が進められた十花新田でも、その開発由来記にしばしば孫兵衛の名前が登場してくることからも知られる(富村登『北総雑記』所収「十花新田開発由来写」)。
 

Ⅰ-10図 小口先祖新田開発由来(長瀬恭弘氏蔵)

 十花新田(現水海道市十花町)は小貝川西岸の谷原の一画に開発された新田であり、開発は寛永元年(一六二四)より始まっている。
 この新田には孫兵衛のほかに、「石下村」の「玄蕃」という者も姿をみせている。
 小口孫兵衛は上川崎村に屋敷地を持っていたらしく、そこに居た弥左衛門がのちに十花新田に入る芦崎分の開発にあたっているので、上川崎から十花にかけて孫兵衛は田地屋敷地を持っていたといえる。
 そうした開発に従事する一方では、金主としての活動が目立っている。たとえば、十花新田の草切りの作右衛門の場合では、孫兵衛に借金し、田畑屋敷を売払い浪人となったが、寛永十六年(一六三九)に庄之助がその土地を買取っている。また、次右衛門の養子の久作も身代が成り立たず、質として田畑屋敷を孫兵衛に渡している。
 さらに、身体成り行かずに欠落した監物の跡を孫兵衛は借金の抵当にとり、「はだか監物」という者を置き、其後は大坂浪人の太兵衛に渡している。主税の場合もその跡は孫兵衛が取り監物に渡し、後、太郎兵衛に渡している。
 このように小口孫兵衛は、金主として活動し、質地として集積した田畑屋敷は他の者へ転売するという行為を行なっていたのであるが、こうしたことからも、小口孫兵衛が在地の土豪的な有力農民としてその財力や影響力が広く石下一帯に及んでいたことがわかる。