この開発手形にはこう書いてあった。
此度、常陸やハら新田精ニ入れ過分ニ発シ御奉公申ニ付て、屋敷として五反歩長く出し候間、発し候て作
り仕るべく候、弥新田精ニ入れ発し候様ニ才覚仕るべき者也、仍て件の如し
申三月十五日 伊備前[印判]
こつちやう
二郎右衛門
この手形の文言、形式とも増田大学助等に宛たものと同一のものである。「こつちやう」は国生村のこととすれば、増田大学助と同様に鬼怒川を舟で渡り対岸の谷原へ出向いて開発に従事したということであろう。
Ⅰ-11図 慶長13年の開発手形(飯島弥三郎氏蔵)と国生の現景