国生の二郎右衛門とこの小保川の玄蕃との関係は不明だが、同じ飯島家に伝わる開発手形の写しであることから、この両者には何らかの血縁関係があったものと思われる。この小保川の玄蕃については「本田鎌庭、新田小保川縁起記録」と題した史料によって、その由緒を知ることができる(千代川村鎌庭 人見勘一家文書)。
飯島玄蕃は諱を吉久といい、鎌庭村に住んでいた。玄蕃は名主を務めており、三人の息子と一人の娘があった。嫡男は庄左衛門、次男は七兵衛、三男は杢右衛門といった。名主役を継いだ嫡男の庄左衛門は当地で不埒な事があり浪人して行方知れずとなってしまう(一説には南部へ浪人し、彼の地で子供をもうけ親子とも立ち帰ったともいう)。
次男の七兵衛、三男の杢右衛門の二人は谷原の開墾を計画し、代官伊奈備前守に申し上げ、慶長九年(一六〇四)に鎌庭新田小保川村を開発したという。
そして、慶長十三年三月十五日には「小保川 玄蕃」宛に伊奈備前守忠次の開発手形が発給されて、屋敷分として一町歩が免除されたのである。その後、忠次の出した手形は火災にあい失ってしまったため、寛永八年(一六三一)九月十一日にあらためて伊奈半十郎忠治によって、玄蕃あての開発手形が再発給されている(Ⅰ-12図)。これは忠次の出した手形のあとに、それを再確認する忠治の奥書きをつけたものであった(飯島弥三郎家文書)。
Ⅰ-12図 寛永の手形(飯島弥三郎氏蔵)
このように慶長期には石下の土豪的有力農民は、各々が鬼怒川と小貝川に挟まれた谷原の湿原に鍬を入れているが、それは持添新田的な規模のものであった。
以上のほかに、当地の寺院も開発に従事している。たとえば、石下の妙見寺の住職高柳原坊は慶長十三年三月十五日、常陸谷原の開発により、屋敷分として三反歩を免除された。妙見寺はのちに廃寺となってしまった寺であるが、その土地は「高柳原坊領」と言われていたという(新井省三『趣味の結城郡風土記』下)。
さらに大規模な本格的な新田の開発は、次の元和~寛永期にかけて、伊奈半十郎忠治の手による河川改修と谷原の開発によって成しとげられた。