伊奈忠治の開発

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慶長十五年(一六一〇)伊奈忠次が没すると、代官頭の地位は嫡男の忠政が受け継いだが、実質的な在地支配は次男の忠治が行なっていたらしい。そして元和五年(一六一九)に忠政が没すると、代官頭伊奈氏は忠治が継ぐことになった。
 忠治の開発方法は、元和期の各々の河川流域の微高地や低湿地を開発人を広く募集して、幕府主導型で新しく開発して新田村落をつくる方法や、次の寛永期には大河川や中小河川の大規模な付け替えや改修工事によって、低湿地を干拓し、そこへ用排水堀を開鑿して多くの新田村落を成立させるという幕府の大土木工事による方法があった。
 寛永期には関東での本格的な開発が進むが寛永六年(一六一九)、荒川の入間川への付け替え、同七年の庄内古川呑口の締切り及び元和、寛永から承応三年(一六五四)にかけての赤堀川開鑿による利根川の東遷化、さらには寛永期の古利根川の松伏溜井の設置、中島用水の開鑿などの大土木工事があいついで行なわれた。これにより元荒川、太日川(江戸川)、古利根川、庄内古川、綾瀬川などの水量が減少し、水害の被害が少なくなったことと用水の確保により、これらの河川に挟まれた低湿地の開発が一層進められた(和泉清司「近世初期関東における新田開発」『駿台史学』五六号)。
 常総地方では、谷原の本格的な開発がこの忠治の手によって始められた。寛永二年(一六二五)には常陸台地の小張に陣屋を構え、同六年には鬼怒川と小貝川を切り離し、鬼怒川を利根川に直接流入させたのである。鬼怒川と小貝川は水海道市寺畑で切り離し、守谷の台地をけずって利根川(常陸川)へ流したのである。これによって小貝川の水量は減少した。
 さらに小貝川には寛永二年山田沼堰(現水海道市・谷和原村)が作られた。山田沼堰は享保七年(一七二二)に福岡に新築され福岡堰とよばれるが、伊奈忠治が最初に築いた堰である。次いで岡堰(現藤代町)が関東流とよばれる工法で寛永七年に築造された。さらに寛文七年(一六六七)になると小貝川下流に豊田堰(現竜ケ崎市)が築造された。
 こうした堰と用排水堀の開鑿によって谷原の干拓は進められ、「常陸谷原」「相馬谷原」とよばれていた谷原に一斉に新田村が成立してきたのである。そして寛永七年と同十一年に総検地が実施されると高に結ばれた新田村として開発地が把握されることになった。