八間堀の開鑿

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谷原の開発、新田の成立については以上のように忠治の寛永期に河川改修と大土木工事が相次いで実施され、大規模な干拓が行なわれたのである。当地ではこの開発に際し、「八間堀」が低湿地の谷原を干上げるのに重要な役割をはたしたものと思われる。
 八間堀は現在鬼怒川と小貝川に挟まれた低湿地の中央部を流れている。下妻市肘谷地先から千代川村、石下町を南流し水海道市で小貝川へ合流している幹線排水路である。この悪水堀は寛永十二年(一六三五)に伊奈忠治が開鑿したと伝えられている。おそらくこの八間堀は谷原の干拓の一環としてその工事が行なわれたものとみえ、当地の新田開発に大きな効果をもたらしたと思われる。
 江戸中期の耕地絵図にはまだ、小貝川の右岸、館方村の近くに蓮柄沼が描かれている。谷原の沼沢地の一つとしてまだ干拓以前の蓮柄沼がよくわかる。この沼の水は沼落し堀を通って八間堀へ流れこんでおり、豊田村へ渡る土橋があった(新井清家文書)。
 八間堀は豊田村五間橋を境に南北に分け、北を上八間堀、南を下八間堀とよんだ。この用排水路の管理は村々用水組合によって管理されており、このほか八間堀を幹線とする数多くの用排水路も用水組合によって維持管理されていた。
 八間堀は元禄年間に豊田郡相野谷村字角井(現水海道市)に竹洗堰を敷設し、鬼怒川と小貝川に分流するようになった。小貝川落口には圦樋が、鬼怒川落口には門樋が設けられ、増水時の逆流を防止したが、宝永元年(一七〇四)鬼怒川の増水で門樋が破損した。また竹洗堰はのちに杭洗堰、さらに石洗堰へと改修された。一方、開鑿当初の小貝川へ合流する水路は古八間とよばれ、宝暦十二年(一七六二)以降新田開発がなされた。
 

Ⅰ-13図 八間堀の現景