寛永検地の実施

363 ~ 364 / 1133ページ
検地は最も公的なものであり、「村」ごとに実施された。この結果作成された検地帳は、年貢徴収の基本台帳となったが、これは領主と村方とで一冊ずつ持っていた。領主は検地を通して村を行政単位として把握したのである。
 石下地域では寛永期になってはじめて幕府の総検地が実施された。幕領でも藩領でも大規模な検地が行なわれたのである。この常陸西南部から下総にかけては、代官頭(関東郡代)伊奈忠治配下による検地が行なわれている。
 この伊奈検地の実施の背景には、小貝川、鬼怒川流域の低湿地の新田開発の成果を、吸収しようとしたことがある。慶長期以来進められてきた谷原の開発によって成立した新田が高請けされたのである。石下地域では、寛永七年(一六三〇)と同十年に検地が実施された。
 この寛永検地が最も基本的な検地となったことは「村明細帳」の記載などからもわかる。たとえば、本石下村文化五年(一八〇八)の「村差出明細帳」(新井清家文書)には、「寛永七午年 御水帳 拾七冊 伊奈半十郎様御検地 八右衛門所持仕候」と記されていて、その他の検地帳としては天和二年(一六八二)の新畑検地帳一冊、元禄三年(一六九〇)の新田検地帳一冊がある。寛永検地が「古検」であり、その検地帳は名主が代々保管してきたのである。
 石下町域に現存している寛永検地帳は、本石下村、本豊田村、崎房村、向石下村、小保川村の五か村分である。検地の実施時期は、本石下村は寛永七年八月八日から八月二十二日まで本石下村と宮田新田を含めて田畑屋敷が行なわれた。同じく本豊田村では、寛永七年八月十九日・二十日に行なわれ、向石下村は同年八月八日から十七日まで、小保川村は八月十四日から十八日までに実施されている。また、寛永十年十月五日には崎房村で行なわれている。
 以上により、石下地域の寛永検地は、幕府の手によって鬼怒川東岸の豊田郡では寛永七年八月に、同じく鬼怒川西岸の岡田郡では寛永十年十月に行なわれたといえる。寛永七年の検地はあきらかに谷原の新田開発に対応するものであり、その高請けを目的としたものであった。
 

Ⅱ-1図 検地の図(『徳川幕府県治要略』)