検地帳から見た農民の階層構成

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石下町域に残された寛永検地帳をもとにして、この時期の村落のあり方をさぐってみよう。
残された検地帳はすべてがそろっているわけではない。たとえば向石下村は一四冊の内一冊が、本石下村も一八冊の内一冊が欠けているが、全体的傾向をつかむことは可能であるのでそのまま集計してある。
 

Ⅱ-2図 検地帳(本石下 吉原文雄氏蔵)

 Ⅱ-1表は検地の結果うち出された各村々の耕地面積である。この寛永検地帳には石盛や石高の記載がなく、田畑等級、反別、名請人のみが記されている。
 
Ⅱ-1表 村々の土地構成
本石下村小保川村本豊田村崎房村向石下村
 
上田
反 
154.218
反 
―  ―
反 
―  ―
反 
17.616
反 
59.628
中田310.02315.60931.30940.92778.710
下田509.408104.928107.500157.910382.104
田計973.719120.607138.809216.523520.512
上畑297.42857.00652.20274.418157.907
中畑314.81178.92966.62089.911170.312
下畑682.422240.501178.726256.807476.128
畑計1 294.801376.506297.618421.206804.417
屋敷49.6176.4298.00716.62929.300
合計2 318.207503.612444.504654.4281 354.229


 
 常総地方の検地が谷原の開発に対応し、新田を吸収しようという意図のもとで行なわれたことは前に述べたが、各村々とも圧倒的に下田や下畑が多い。小保川村や本豊田村などには上田がまったく無い。崎房村の場合も上田が一七反余のみである。それはこれらの村が低湿地に面していることがあげられるが、多くの新しい耕地が下田として高に結ばれ、把握されたことを示している。新田開発では本石下村は宮田新田を村の中に持っていて、この検地ではこの宮田新田の高請けがなされたものと見える。各村々の耕地の状況からみて、田方面積よりは畑方面積の方が多い。畑がちの村々であるといえるが、当時開発可能な微高地は下畑と理解されていたと考えられる。
 それぞれの村には立地条件や過去の歴史性の違いがあるが、一般的傾向として、村内の階層構成を見てみよう。Ⅱ-2表は五か村の名請人と耕地反別を示したものである。この寛永期の村々の特色を要約してみると、第一には、村内の有力農民の存在である。本石下村で圧倒的に優位な立場に立ち、最大の土地所有者である八右衛門(吉原)や、四町三反余をもち第二位の雅楽助は検地案内者でもあった。
 
Ⅱ-2表 寛永検地階層構成
所持地(1)本石下村(2)小保川村(3)本豊田村(4)崎房村(5)向石下村
名請人(屋敷持)比率名請人(屋敷持)比率名請人(屋敷持)比率名請人(屋敷持)比率名請人(屋敷持)比率
80~100反1( 1)34%1( 1)39%
70~80
60~701( 1)
50~601( 1)
40~502( 2)
30~404( 4)1( 1)10%3( 3)20%4( 4)
20~3014(14)3( 3)4( 4)5( 3)33%7( 7)
10~2082(68)13( 2)6( 5)22(20)39(32)
 9~106( 5)18%3( 3)6%1( 1)11%9( 9)39%5( 3)23%
 8~ 97( 5)2( 1)2( 2)9( 9)12( 9)
 7~ 815(10)3( 3)1( 1)6( 5)6( 5)
 6~ 714( 7)2( 2)2( 2)4( 3)4( 2)
 5~ 610( 6)14( 2)4( 2)
 4~ 56( 2)6%10( 2)7%29%3%5( 2)9%
 3~ 413( 1)2437( 4)
 2~ 315( 0)42%677%360%1( 1)25%4( 1)29%
 1~ 235( 4)28778( 1)
 0~ 176( 8)922813( 1)27( 2)
300(137)100 165(17)100 64(18)100 83(53)100 135(77)100 
(1)吉原文雄家文書,(2)浅野茂富家文書,(3)篠崎育男家文書,(4)秋葉光夫家文書,(5)増田務家文書による.各村とも寛永7年8月,ただし崎房村は寛永10年10月.


 
 この八右衛門家の土地所有をみるとⅡ-3表のようになる。上田八反余、上畑一町余と田畑のうちで、生産性の高い耕地を所持していることをあげられる。
 
Ⅱ-3表 本石下村八右衛門家の所持田畑
 
上 田
反  
8.325

7
中 田6.6136
下 田3.47013
田 計49.70826
上 畑10.20810
中 畑7.2106
下 畑11.70318
畑 計29.12134
屋 敷2.5262
合 計81.42562


 
 また、向石下村の場合では増田将監・大学親子の存在があげられる。Ⅱ-4表の示すように両者の所持する耕地は合計して一四町八反九畝二一歩になる。これは向石下村全耕地の一一%を占めている。さらに、当家は、伊奈備前守より一町歩の除地を与えられている。
 
Ⅱ-4表 向石下村増田家の所持田畑
将  監大  学
 
上 田
反   筆
3.404( 4)
反   筆
3.314( 2)
中 田11.002( 15)11.619( 13)
下 田9.917( 12)12.014( 11)
田 計24.323( 31)27.017( 26)
上 畑17.603( 20)7.712( 11)
中 畑12.429( 19)10.910( 13)
下 畑31.604( 52)12.918( 21)
畑 計61.706( 91)31.610( 45)
屋 敷2.216( 10)1.909( 6)
合 計88.315(132)60.606( 77)


 
 向石下村では第一位八町八反余の将監、第二位六町余の大学、第三位五町一反余の隼人の順である。こうした土豪的な有力農民の経営が展開されていた。
 特色の第二は一町歩以上の有力農民の存在は、多くても三〇%台ということである。本石下村と向石下村では三四%と三九%と他村より比較的一町歩台を所持する農民層が数多く存在している。屋敷地を持ち、年貢諸役を負担する初期本百姓はこの階層を中核とするものであった。石下地域では、まだ寛永期には村内でそうした農民が少なかったといえる。
 第三には、三反以上一町歩未満の農民の存在であるが、崎房村以外の村々では本石下村二四%、小保川村一三%、本豊田村二〇%、向石下村三二%と各村々ともまだその存在は少ない。崎房村だけは四二%と圧倒的に多く存在しているが、一町歩前後の所持者が多いことによる。
 第四に有力農民の存在と対局的に、三反以下の零細農民の数の多さである。特に小保川村では七七%にものぼっている。小保川村は上位の高持ちでも一町歩以上所持者が一〇%ともともと少なく村全体が零細な農民で占められていた。本豊田村でも三反以下は六〇%と非常に多いことがあげられる。こうした零細な農民は無屋敷登録者であって、屋敷地を持ち一人前の本百姓とされる者は、五反歩以上所持する農民層以上に集中している。逆にいえば屋敷地を持たない農民が、非常に多く存在しているということになる。
 第五に出入作関係が激しいことがあげられる。とくに本石下村の場合、三反以下の土地を所持する他村からの入作百姓は小保川や若宮戸といった近隣の村々から来ているが、そのうち一反歩未満の耕地所持者は五二名にものぼっている。
 このようなことから、一部の有力農民と大多数の零細農民という階層構成があきらかになったが、三反歩以下の零細農民はその経営を自立して行なうことは不可能であった。有力農民の耕地を小作し依存しながら、有力農民もその労働力を必要とするという、相互補完関係のもとにあったと考えられる。寛永検地がこうした零細農民の自立を促進したことはいうまでもない。