寛文期の本石下村

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さて、寛永期の村落状況をみたが、小農自立政策のもとで寛文期(一七世紀半ば)には、石下の村はどのような変化をみせるのだろうか。Ⅱ-5表は寛文二年(一六六二)の、本石下村の名寄帳をもとに作成した階層構成表である。
 
Ⅱ-5表 寛文期本石下村の階層構成
所持地名請人比 率
 80~100反
70~80
60~70 1 ( 1)1%(54%)
50~60
40~50 3 ( 3) 3 
30~40 2 ( 1) 2 
20~30 14 (12) 14 
10~20 34 (29) 34 
 9~10 5 ( 4) 5 (24%)
 8~ 9 7 ( 5) 7 
 7~ 8 4 ( 2) 4 
 6~ 7 4 ( 3) 4 
 5~ 6 4 ( 3) 4 
 4~ 5 2 ( 1) 2 ( 5%)
 3~ 4 3 ( 3) 3 
 2~ 3 2    2 (17%)
 1~ 2 3    3 
 0~ 1 12 ( 3) 12 
100 (70) 100
寛文2年8月「本石毛村田畑名寄帳」による.
( )は「屋敷持」の数字である.


 
 「名寄帳」というのは、年貢諸役を村内で小割りする際の基準を定めるための帳簿といわれているが、村の名主が検地帳にもとづいて名請人ごとに所持する耕地反別を整理したものである。検地帳と名寄帳とは、そのまま単純に比較することはできないが、寛永検地後三〇年あまりたって、村はどう変化したのだろうか。
 寛永期の本石下村は承応元年(一六五二)の年貢割付状からみると、おそらくこの検地で村高二〇一七石五斗七升六合を打ち出したものと推測できる。そして村高は寛文期には一〇八七石七斗一升八合に減少している。こうした村高の減少だけでなく村内では、名請人が減少するという大きな変化がある。屋敷地所持者を寛永期と比較すると、寛永七年(一六三〇)一三七名が寛文二年(一六六二)では七〇名に減少している。このことは村落構造に、なんらかの変化があったことを示していよう。
 さらに、階層構成をみると、変化の第一に一町歩以上の層を中核として村が形成されてきたことがわかる。寛文期になって一町歩以上の所持者が、ようやく五〇%をこえるようになったのである。一町歩以下の場合でも、五反歩以上の階層が増加している。
 寛永期では先にみたように、どの村々も一部の有力農民のほかほとんどが一町歩以下の、とくに三反歩未満の零細な農民が多い村落構成であったが、寛文期には安定した経営状態になってきている。
 さらに、第二には八右衛門家のような土豪的有力農民が減少して来たということである。八右衛門家は相変らず村内第一位を占めているが、それでも耕地面積は減少し、経営は縮小されている。第三には、三反歩未満の層の減少である。寛永期に激しかった出入作関係が整理されたのである。また、寛永期に圧倒的に多かったこの階層の零細農民は、所持する耕地を増加させて身分上昇したか、あるいはそれ以下に没落したかの二つの道があったということであろう。
 こうして、寛文期になると、一町歩以上の土地を持つ自立的な小農を中心とする村が形成されてきた。村には年貢諸役を負担する本百姓と、帳はずれの零細な水呑百姓とが存在するようになるが、本百姓経営も常に没落する危険性をはらんでいたといえる。