村請制は幕藩領主支配の基礎として、「村高」を基準に「村」が年貢等を負担し上納していく体制である。いいかえれば、土地を所持し、責任を持って耕作する百姓から、村を通して年貢を収納させようとする体制といえる。
この村請制は近世初期に幕藩領主によって、上から強引に導入されたものであるが、一七世紀半ばに村請制村落として確立をみたものである。
近世社会では、検地によって確定した村が領主の年貢負担の単位であり、村は百姓の連帯責任の単位でもあった。さらに、さまざまな訴訟についても、村が訴訟の単位であり、治安や秩序の維持なども村ごとに行なうものとされた。
こうした村請制は、太閤検地とそれ以後の幕藩検地によって村切りが行なわれるとともに、石高制が全国に実施されたことと関連する。石高は米の生産高を表示する単位であるが、米のとれない畑や屋敷、山林原野まで米に換算して石高・村高が確定された。つまり、石高は村の年貢負担の基準であり、領主の知行高、軍役の表示の基準でもあった。