近世初期の名主・庄屋は、中世戦国期の土豪的有力者の系譜を引くものが多く、その地位は世襲であった。村の中で名主は権威があり、家格も高く、百姓でありながらも羽織や絹物の着用が認められたり、苗字帯刀が許可されたり、屋敷地に門構や母屋に式台を置くことを認められたりした。
Ⅱ-5図 名主任命状(新井清氏蔵)
石下での初期以来の代表的な有力名主をあげてみると、向石下村の増田大学、新石下村の小口孫兵衛、本石下村の吉原八右衛門、崎房村の秋葉三太夫などであろう。
名主になる家柄は決まっていたが、名主は領主の許可制で交代の場合は領主に届けて許可をうけた。旗本領では地頭より名主役任命の下知状や申渡が発給されている。さらに、名主は村入用の中から給米が支給されたり、あるいは若干の除地を持ったりした。
名主は村政全般をあずかったが、知行地が分散していた地頭の名主の場合には、総代名主、割元名主という者もいた。たとえば旗本興津氏の下総国での知行地は若宮戸村、館方村、本石下村にあったが、本石下村の名主新井家は興津氏の下総知行地三か所を統轄する、総代名主(割元)役をつとめていた。
名主の下にいる組頭は村内の小地域区分である組の頭であるとともに、名主事務の補佐役であり、村の年貢収納などにあたった。組頭のことを年寄とか長百姓などと呼ぶ場合もあるが、年寄は名主と組頭の中間的な存在で、村政顧問といった役どころの場合もある。
百姓代は地方によっては村目付とか横目とかよばれるもので、近世中期以降登場するもので、初期にはまだみられない。名主・組頭にこの百姓代を加えて村方三役とよぶが、百姓代は一般村民の代表であり、名主・組頭の監視役であると同時に、一般村民と名主との間に立つ調整役でもあった。