農民の統制

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幕藩社会の経済基盤は農業におかれていたため、領主は年貢諸役の負担者である百姓への勧農と統制には特に留意し、その年貢収納を確保することが農政の根本であった。
 為政者が百姓をどう見ていたかであるが、家康の側近であった本多佐渡守正信とも、朱子学者藤原惺窩の著ともいわれている「本佐録」には「百姓は財の余らぬ様に、不足なき様に」とあり、また「落穂集」には家康の言葉として「郷村の百姓共は死なぬ様生きぬ様にと合点致して収納申付候様」とある。いずれも初期の年貢収納の原則を率直に述べたものである。百姓は財の余らぬように、不足なきように、死なぬように、生きぬように統治するのが望ましいと、百姓の統制と保護の二つが巧みに結合されている。
 そしてこれは、百姓の生産物のうち、かつかつに生きていけるだけの分を残して、後は全部取り上げようという初期の領主支配の方針をよく表わしているといえよう。
 年貢徴収を確実にするため、幕藩領主はさまざまの法的規制を加えたが、その一つが「慶安の触書」に代表される生活制限令である。幕府はすでに寛永二十年(一六四三)、一七条からなる「土民仕置覚」を発して百姓の衣食住に厳しい制限を加えていたが、慶安二年(一六四九)には三二条から成る「慶安の触書」を発した。