「慶安の触書」は、こまかい日常生活の心得を述べて、領主からみた百姓のあるべき理想的な姿を描き出した。それを支えるのは儒教的倫理観である。
儒教倫理は支配する領主より民衆へ上から侵透されたが、民衆はこれを受け入れることによって幕藩社会を容認し、それに緊縛されたのである。
触書の第一条には「お上」を敬い服従せよと述べている。そして、第五条・第一四条などでは耕作に専念せよというが、「茶ばかり飲んだり、物見遊山好きな女房はたとえ美人であっても離縁せよ」ともある。夫婦のあり方までこまやかに指示している。このほかには布木綿のみの着用、雑穀を食べよという指示まで出し、最後の文には次のように書いてある。
それは「右の如くに物ごと念を入れ、身持をかせぎ申すべく候。身上よろしくなり、米金雑穀をたくさん持ち候とて、無理に地頭、代官より取ることなく、天下泰平の御代なれば、脇よりおさえ取る者もこれなく、然れば子孫まで有徳に暮し、世間飢饉の時も、妻子下人等をも心安くはごくみ候、年貢さえすまし候へば、百姓ほど心易きものはこれ無く、よくよく此の趣を心がけ、子子孫々迄申し伝へ、能々身持をかせぎ申すべきもの也」とある(「徳川禁令考」)。
ここにはもはや天下泰平の世の中だから、地頭や代官が恣意的に年貢を取ることはもうない。そして年貢さえ納めれば百姓ほど気楽なものはないから、よくよく働いて財産をつくるようにというが、百姓にとって年貢を納めることが、どんなに苦痛であったか触れようとはしないのである。
法的な規制は土地の処分についてもある。その一つは、いわゆる「分地制限令」である。幕府は年貢確保のためには本百姓の解体を防ぐ必要があったため、延宝元年(一六七三)、正徳三年(一七一三)の二度にわたって「分地制限令」を出し、名主は二〇石、百姓は一〇石、反別一町歩以下の相続のための田地分けを禁じた。
すでに寛永二十年(一六四三)、幕府は「田畑永代売買の禁令」を出していた。それもまた本百姓経営の解体を防ぐ目的で、土地の永代売買を禁じたものであり、すべては年貢の確保の一点に絞られていたのである。
このような規制のもとで百姓は生活の維持のために懸命に働き、耕地や石高を増加させ農具の改良に務めてきたのである。