五人組は幕府が村ごとに設定した相互検察・連帯責任制であるが、およそ五戸をもって結成したのでその名称がある。五人組は民衆統制のために設けられた支配の末端につながる機構であるが、制度として整備をみたのは寛永年間(一六二四~一六四三)のことであった。
「五人組帳」は村ごとに五人組構成を記したものであるが、それには「前書」がついている。この「前書」は百姓の日常生活のあるべき姿を領主側から規定したもので、名主が「前書」の部分だけを書き写して置いて、毎月または年数回、五人組の寄合で村民に読み聞かせて徹底を期したものである。また、寺子屋の教材としても利用され、儒教倫理の浸透に利用されたものでもある。
「前書」には地域によって内容が異なるものもあるが、基本的には「慶安の触書」に準じた内容をもっている。
ここで石下に残された「五人組帳前書」を例にしてその内容を具体的にみてみよう。史料は、文化五年(一八〇八)三月に作成された「小保川村五人組帳」である(浅野茂富家文書)。
Ⅱ-6図 「小保川村五人組帳」(浅野茂富氏蔵)
この五人組帳の前半に「覚」と題した条文が二七か条記載されている。これが「前書」である。
内容的には、前々よりの御条目の趣を守り、法度に背かぬこと(一条)からはじまって、五人組の作成と相互検察を命じ(二条)、宗門帳は毎年三月までに差出し、切支丹その他の疑わしき者を申出ることを命じている(三条)。
さらには家業を第一によく働き(四条)、徒党を結ぶこと(七条)や用水の水などをめぐる水論その他での喧嘩口論を厳しく禁止している(一四条)。喧嘩口論は名主組頭の扱いであって、そのほか刀や脇指などを持ち出して我儘な振舞をする者がいれば、その罪は本人より監督する名主や組頭の方が重いとする。
奉公については年季は一〇年を限ること(五条)。人身売買の禁止(六条)、生類憐みの心を村中残らず持つこと(二二条)があるが、これは単なる倫理上の問題ではなく、近世後期の農村荒廃の中で、子捨て、子殺しの現実に対応するものである。
生産に関するものでは、田畑永代売買の禁(八条)、分地制限(一三条)、耕地を荒すことや隠田の禁止(一六条)、捨馬の禁止と病馬の村養育(二三条)など。初期以来の田畑永代売買禁令や分地制限令がくり返し法度として出されていた。
百姓身分についての規定をみると、分限より軽い家作、分限に応じた衣類の着用を命じ、長脇指は百姓に不似合の風情という(九条)。
寺社については、新規の寺社の建立禁止や祭礼仏事を軽く行なうこと(一〇条)、寺社への欠込み者の申し出(一一条)がある。
さらには、新規酒造の制限(一二条)、怪しき者や無宿者の取締りについて(一五条、一七条)、博奕の禁止や相撲、狂言等の興行禁止、遊女かかえの禁止(二〇条)などがあり、近世後期の関東農村の荒廃に対応するような内容が数多くあげられており、このような種々の規制は、村ごとの連帯責任で対応することを命じられていた。