年貢の徴収方法には、毎年十月ごろ領主より役人が派遣されて村の作物のできがらを調査し、それによって年貢量が決定される検見法と、過去数か年間の年貢量を平均し、五年とか七年とかの間は豊凶にかかわらずに、決められた一定額の年貢を村に賦課する定免法とがある。
一般的には江戸初期には検見法が行なわれ、中期以降、幕領を中心として定免法が広く採用されていく傾向にある。ただ定免法は、凶作や不作の場合には破免が適用されると検見法にかえられた。享保の改革では幕府の年貢増徴政策の一つとして、定免法が実施されている。
検見法は米の収穫前に検見役人が村にやって来て、稲の実りを検査し、村内の上中下の田地一坪の稲を刈りとって、そこから得られた米の量からその年の豊凶を定め、これをもとにして年貢率を決定し、年貢収納量を見積った。
こうして決定された年貢額は「年貢割付状」に記載されて村におくられてくる。村ではこの「年貢割付状」が来ると、名主をはじめとする村役人は、惣百姓の立合いのもとで年貢を各家、各人にふりわける。この小割にしたがって百姓はその年の年貢を名主のもとへ差出したのである。
村に課された年貢の納入は多くの場合は少しずつ分納した。村々からは河岸などを利用して江戸へ搬入し、蔵屋敷に納められたのである。領主側では納入の都度に「小手形」を発給するが、年貢が完納されると、それをまとめて「年貢皆済目録」を村へ出した。年貢の納入には終るまでさまざまな規制がかせられていたが、この皆済目録が村に手渡されて、はじめて田植えからはじまった村の一年が終ったのである。
百姓にとって年貢の完納は、田畑を質に入れてまでも行なわなければならない義務であった。そのため質入れした耕地を請け戻すことができずに質流れになり、小作人の身分に転落する者や、あるいは「田畑永代売買禁令」を破って永代売りまでする者もあった。