Ⅱ-6表 本石下村の年貢量 |
年 月 日 | 村 高 | 取 米 | 取 永 | 備 考 |
元和 6. 3.20 | 155石8斗7合 | 永 50貫951文 | 米銭請取 | |
元和 6. 9.26 | 1 059石5斗4升9合 | 242石1斗4升4合 | 49貫740文 | |
寛永 3.10.26 | 202石6斗2升5合 | 60貫775文 | ||
(寛永7) | 302石8斗3升3合 | 85貫911文 | ||
(寛永8) | 288石4斗7升 | 89貫818文 | ||
寛永 9.11. 5 | 273石8斗 6合 | 67貫842文 | ||
寛永19. 5.19 | 2 017石5斗7升6合 | 370石1斗9升5合 (186俵9升3合) | 132貫365文 | 寛永18年分日払方の目録 |
承応 1. 9. 8 | 2 017石5斗7升6合 | 446石2斗7升8合 | ― | 慶安4年分指出し |
承応 3.11. 1 | 2 017石5斗7升6合 | 400石8斗2升2合 | ― | |
万治 2.10.15 | 1 087石7斗1升8合 | 202石4斗5升2合 | 75貫166文 | |
寛文 2.11. 5 | 270石4斗4升6合 | 61貫219文2分 | ||
天和 2.11 | 932石3斗3升9合 | 216石2斗6升 | 61貫762文 | 他小穀永13貫917文 鮭運上永375文 |
貞享 1.10.27 | 〃 | 211石9斗 8合 | 58貫 11文 | 〃 〃 |
貞享 2.11. 2 | 〃 | 205石9斗1升4合 | 61貫932文 | 〃 〃 |
貞享 3.11. 2 | 〃 | 185石6斗1升 | 61貫849文 | 〃 〃 |
貞享 4.10.25 | 〃 | 208石6斗8升 | 57貫 13文 | 〃 〃 |
元禄12.10 | 934石8斗8升5合 | 126石3斗6升3合 | 45貫627文 | 萱野銭永25文 鮭運上永375文 |
各「年貢割付状亅(本石下吉原文雄家文書)より |
本石下村は慶長六年(一六〇一)幕領となった後、寛永十年(一六三三)には古河藩領となった。その後、万治元年(一六五八)土井利益領、寛文四年(一六六四)には土井利益、利房領となるが、これは広義の古河藩領と考えてよい。こうして五代古河藩主土井利益が天和元年(一六八一)志摩国鳥羽へ転封するまで古河藩領となっていた。その後、天和三年大名大久保忠増領となり、元禄元年(一六八八)幕領、宝永二年(一七〇五)以降は旗本領が形成されていく。
村高は初期の「年貢割付」をみると、天和二年以降九三二石余で固定化するが、それ以前には元和期には一〇五五石余、承応期には二〇一七石余と非常に大きな村であった。この本石下村からは原宿村が分村するが、それは寛文期のことであり、「元禄郷帳」では本石下村は九六四石余と記されている。
では、元和期の年貢割付をみてみよう。
本石下村申御年貢可納割付
一高千五拾九石五斗四升九合 本石下
此内卅六石八斗六升七合 永引
此内壱石四斗七升 申ノ堤敷
四ツ八分
残而高千弐拾弐石六斗八升弐合
此内
田方五百四石四斗七升四合
取米弐百四拾仁石壱斗四升四合
畠方五百拾八石弐斗八合
此永四拾九貫七百四拾文
右霜月廿日以前ニ皆納可申者也
宮石 印
喜済 印
元和六年[かのへ申]九月廿六日 但馬 印
左近 印
内匠 印
右名主百姓中
年貢の取り方をみると、村高一〇五五石五斗四升のうちから三六石余の「永引」を引いて有高を出し、これを田方五〇四石余と畑方五一八石余とに分け、田方には免(年貢率)四ツ八ブ(四八%)をかけて年貢量(取米)を二四二石余を計算している。畑方の方は永四九貫七四〇文が打出されている。この単純な方法は「厘取法」というものである。
このように石高に免をかけて取りを算出する厘取法は、おもに関西でとられた方法であり、関東でも初期の場合にみられる徴租法である。古河藩などでも厘取法が行なわれたことがある。たとえば、下国府塚村などでは土井氏入封の寛永十年(一六三三)から同十三年まで実施されている。それは藩主交代を機に実施されたもので、村を十分に把握できるようになるまで続けられたとも考えられる。ほかには旗本領の上泉や大川島・小林・迫間田村などが元禄十一年(一六九八)に古河藩領となる以前は、厘取法が行なわれていて、同藩は一年の余裕をみて反取法に変更したという(『小山市史』)。
ところで、この元和六年九月二十六日付の年貢割付状には、ほぼ同文の「本石下村申ノ御年貢可納割付」がある。内容的には田方・畑方の反別記載がないものの、あとはまったく同じ取米、取永が記され、「右之米銭霜月廿日以前急度皆納可申者也、仍如件」と結ばれている。発給した役人は「細井又左衛門、鈴木儀兵衛、伊与田久太夫」の三名であり、「名主百姓中」に宛たものである。この二通の同文だが、発給者名のそれぞれ異なる、割付状の両者の関係は不明であるが、その後の寛永三年(一六二六)や同七年の年貢割付状は、伊奈半十郎忠治によって発給されていることから考えると、元和期も幕領だったのであろうか。
この割付状は、本石下村の「名主百姓中」に宛てある。あきらかに村に対して出されたものであり、村請制は貫徹している。さらに年貢率では田方の年貢率が四ツ八ブ(四八%)とあり、畑方の方は免の記載がないのでわからないが、免四ツ八ブはかなり高率の賦課であった。同年三月二十日付の元和五年の年貢米銭請取りには取米が一五五石余、永五〇貫余であったが、翌年の元和六年の取米は二四二石余に急激に増徴されていた。
寛永期に入ると、先の厘取法から反取法へ徴租法が転換している。反取法とは関東での基本的な年貢賦課方法であって、田畑の上中下等の各等級ごとに反あたりの取米を定めて、それに反別をかけて年貢量を算出する方法のことである。
寛永三年伊奈忠治発給の年貢割付状は、前欠部分があって田方が不明となっているが、畑方の方では、上畑反あたり一〇〇文取り、中畑八〇文取り、下畑六〇文取り、屋敷一〇〇文取りである。ほかに新田分や、宮田新田分の反当りの取米・取永が記載され、それぞれの年貢量が算出されている。これは検見を実施した上で決定されたものであって、実際の収穫量を把握している。
さらに寛永七年には、本石下村に実施された寛永検地の田畑反別の確定化を反映して、反別の増加と記載形式の整理がなされている。それぞれの田畑反当り取率はほぼ変化はないが、決定された合計取米三〇二石八斗余、取永八五貫九一一文は、寛永三年の時とくらべれば、米銭ともに収奪が強化されたことがわかる。田方では取米約一〇〇石増徴、畑方でも約一〇貫文の増徴である。寛永七年八月実施の本石下村の「寛永検地」は、年貢負担者の確定と耕地面積の把握による村高を増加させただけではなく、年貢量も不可避的に増加させたのである。
Ⅱ-9図 検見坪刈之図(『徳川幕府県治要略』)