寛文期以降の年貢

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本石下村は、古河藩領として反取法が施行されていた。そして、古河藩は寛文四年(一六六二)から同五年にかけて領内の総検地を実施し藩制を確立していった。
 本石下村では原宿村がこの時期に分村し、本石下村は村高が九三二石余に固定していった。
 年貢割付状の記載形式をみると、土井氏の鳥羽転封翌年の天和二年(一六八二)以降記載形式がととのい固定化されている。年貢割付状には村高と上田、中田、下田等の等級及び反別、引き分、反当りの取りが記される。引き分とは川欠け、付荒、検見引などである。各等級ごとの残高反別と取米が合計され、小物成として小穀永一三貫九一七文と鮭運上永三七五文が賦課されてくる。
 天和二年(一六八二)では取米二一六石余、取永六一貫七六二文、小物成小穀、鮭運上が賦課された。納め方は米二二二石二斗九升三合五勺と、三石九斗六升余が大豆で納めていて、そのほかに小物成として小穀永一三貫九一七文、鮭運上永三七五文である。鮭運上があるということは、当時鬼怒川を鮭がのぼってきていて、それを川沿いの村では漁をしていたことがわかる。
 元禄元年(一六八八)、大名大久保氏領から幕領に替わるが、元禄十二年(一六九九)の年貢割付状では、村高九三四石余、取米一二六石余、取永四五貫六二七文に年貢が減額されている。私領より幕領の方が年貢が緩やかだったといえる。
 取米、取永の納め方は、米納一二四石九斗六升二合、荏納(米四斗六升七合)は荏で九斗三升四合、大豆納(米九斗三升四合)は大豆一石八斗六升八合と米納のうち荏と大豆の現物納であった。畑永は四五貫六二七文が金納であった。さらにこの他小物成では萱野銭永二五文、鮭運上永三七五文が賦課されていた。
 寛文・延宝期以降、石下の村々が近世村落として確立してくるのと前後して、領主側の年貢割付も検見を実施し反取法で賦課しながらも年貢量は村高の確定とともに安定してきている。また、年貢割付状の記載形式もしだいに整ってきて小物成の賦課も固定化されてきたといえよう。