村の争論

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検地の持つ性格の一つに、村域の決定がある。近世の村は検地による村切り(村域のみならず百姓の一村帰属をも含む)によって成立してきた。その村域の決定には従来からの村落内部の慣行や村と村との相互の関係によって決められてきたといえる。しかし、地域によってはさまざまな理由によってうまく行かない場合もあり、近世初期には各地で境論(村境い争論)が起っている。
 下総台地のような地域では、谷の最低部(野地)の帰属が問題となることが多かった。野地は近世に入って開発され、耕地化が進んだ低湿地であり、その部分が村の設定にあたって帰属に混乱が生じたのである(木村礎『近世の村』)。
 石下地域では元禄期(一七世紀末)に飯沼周辺の開墾地の帰属をめぐって、古間木村と大生郷村(現水海道市)との境論が起っている。さらに、元禄十六年(一七〇三)、小貝川の低湿地では館方村と本豊田村の地境争論の裁許がなされている。石下ではこうした低湿地の、耕地化に伴う境論が発生したのである。