一万石以下の中小家臣団を構成する旗本・御家人は直参とよばれ、三河以来の徳川直臣であることを誇りとしていた。旗本と御家人の区別は、通説的には将軍に御目見え(謁見)できるのを旗本、それ以下を御家人と呼んでいる。
彼らの知行形態をみると、地方取りと蔵米取りとに大別される。地方取りはいわゆる地方知行のことであり、将軍から領地を与えられその土地の支配を行なうものである。蔵米取りとは幕府から禄高に応じて米を支給されるもので、切米、現米、扶持などの形があった。
旗本・御家人の総数として、よく「旗本八万騎」などといってその軍団の強さを誇るが、旗本は幕府より与えられた知行高に応じて軍役を務め、その軍役量に定められた武具・従者を引きつれて戦場に出向いたのであり、「八万騎」とはそうした従者をも含めた総数と考えられる。
それでは、江戸中期に旗本・御家人はどのくらいいたのであろうか。宝永年間の「御家人分限帳」(「御家人」は旗本・御家人の意味)によると、総人数二万二五六九人である。そのうち地方取り二五〇七人、蔵米取りが二万六四人である。知行高でみると、地方知行高二七五万石余、蔵米高約五五万石となる(鈴木壽『近世知行制の研究』)。
旗本は御家人と比べて知行高は多く、蔵米取りより地方取りの者が多い。この宝永年間でも知行高をみると地方知行の方が蔵米知行の約五倍にもなっている。こうした地方知行の者の多さは、寛永・元禄期に実施された地方直しとよばれる旗本への政策の結果といえよう。