石下の元禄地方直し

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常総地方での動きをみると、常陸は武蔵に次いで宛行の多い地域であり、その知行地は茨城郡・真壁郡・新治郡に多い。下総は武蔵、常陸に次いで三番目に知行地が多く設定された地域である。ここでは葛飾郡・豊田郡・香取郡に集中していた(大舘右喜「元禄期幕臣団の研究」『国学院雑誌』六六-五)。
 石下地域はこうしてみると、元禄地方直しによって旗本領が集中的に設置された所であり、この地方直しが村落に大きな影響を与えたといえよう。幕末に至るまで、新田を除く村々の大部分が旗本分給の村であるという特質は、この地方直しを画期として形成されたといえる。
 下総では豊田郡や葛飾郡・香取郡に多く知行地が形成されたが、石下に知行地を与えられた旗本をまとめたのがⅡ-8表である。これには確認できた一九名を載せてある。この表によると、元禄十年七月二十六日に蔵米分を地方に切り替えられた者が一八名、同じく宝永四年三月に切り替えられた者が一名、合計一九名である。この地方直しにともなうその後の旗本知行地の移動は少なかったとみえ、当地では元禄十四年に⑭松平政直と⑰水野忠順、元禄十三年と同十六年の⑱松平勝秀の例と、他に②坪内定鑑と③興津忠閭の五例のみである。ほとんどの旗本が元禄以降当地に定着したといえる。
 
Ⅱ-8表 元禄地方直しの旗本たち
番号氏 名知行高地方直し(元禄10.7.26)「旧高知領」役 職備   考
稲生正盛1 500石300俵→下総国豊田郡内300石若宮戸村(145.5石)目付他に田下村,上蛇村,加養村
坪内定鑑1 100石300俵→下総国豊田郡内300石若宮戸村(57.6石)
館方村(85.6石)
小姓組,使番のち豊田郡等の知行地を武蔵国都筑,多摩,高麗比企,上総国長柄郡へ移される
興津忠閭1 030石余300俵→下総国豊田郡内300石若宮戸村(56.1石)
館方村(85.6石)
本石下村(721.2石)
徒頭,西丸留守居宝永2.3.23相模国愛甲,下総国豊田,岡田郡内1 000石加増のち岡田郡の知行地は上総国望陀郡へ移される
内藤種冬 600石200俵→下総国豊田郡内200石若宮戸村(75.6石)小姓組
初鹿野信只1 200石300俵→下総国豊田郡内300石若宮戸村(145.7石)普請奉行
朝倉景行1 000石300俵→下総国豊田郡内300石大房村(84.7石)
山口村(91.8石)
小十人頭他に三坂村,小島村,谷田部村
長田重堅 600石200俵→下総国豊田郡内200石本豊田村(1.9石)
曲田村(78.4石)
小姓組,火事場目付他に肘谷村,上蛇村
富永守和 550石300俵→下総国豊田郡内300石若宮戸村(145.7石)もと広敷番頭他に田下村,加養村,上蛇村
小倉正仲1 200石300俵→下総国豊田郡内300石館方村(85.6石)
若宮戸村(57.6石)
新石下村(485.2石)
船手 先手鉄砲頭
森川昌勝 650石200俵→下総国豊田・香取,武蔵国足立郡内で650石本豊田村(6.2石)
曲田村(78.4石)
他に肘谷村,上蛇村
佐々木正和 700石200俵→下総国豊田郡内200石若宮戸村(75.6石)もと小十人頭他に上蛇村,袋畑村
小田切直利2 930石余300依→下総国豊田郡内300石大房村(84.7石)
山口村(91.8石)
小姓組番頭他に小島村,谷田部村
土岐頼利 700石300俵→下総国豊田郡内300石東野原(3.6石)書院番他に山尻村,柳原村,福崎村,小島村,古沢村
松平政直 670石200俵→下総国豊田・猿島・葛飾郡内200石大番元禄14. 11 豊田郡の知行地を岡田郡内へ移される
武田信安1 700石300俵→下総国豊田郡内300石大房村(84.7石)
山口村(91.8石)
新番頭他に小島村,谷田部村
吉田宗恬 700石200俵→下総国岡田郡内200石もと奥医師元禄14.2岡田郡の知行地を香取郡へ移される
水野忠順 500石500俵→下総国豊田・岡田郡内500石目付,普請奉行元禄14豊田・岡田郡の知行地を常陸国新治郡へ移される
松平勝秀 500石500俵→下総国豊田・結城郡内寄合元禄13・6豊田郡の知行地を下野国都賀郡へ,元禄16. 6結城郡の知行地を都賀郡へ移される
窪田正良 800石宝永4.3 500俵→常陸国河内,下総国豊田郡内500石新石下村(313.0石)
本豊田村(452.0石)
他に皆葉村 宝永4.7豊田・相馬郡内300石加増


 
 それぞれの旗本は「知行割示合覚」にあったように全知行高のうち、蔵米の分がすべて地方にかえられ、地方知行に統一され、蔵米一〇〇俵=地方一〇〇石の計算で知行地が配分されている。その知行地の分布をみると、豊田郡内では、鬼怒川沿いの若宮戸村、本石下村、新石下村、大房村、東野原村、山口村が対象とされ、また、小貝川沿いでは館方村、本豊田村、曲田村などが対象となった。そのため、各村々では一村に二~八名の旗本領が設定され、複雑な分給村落が成立した。
 その典型的な例として、たとえば豊田郡若宮戸村は四六五石余の幕領の村であったが、この地方直しで、幕領一三石のほか、旗本八給の村となった。Ⅱ-9表の示すようにその内訳は、幕末、明治初年の『旧高旧領取調帳』でみると、稲生氏・初鹿野氏・富永氏とも一四五石余の機械的な均等配分が行なわれ、さらに佐々木氏・内藤氏は七五石余、坪内氏・小倉氏は五七石余と同知行高で均等配分をうけている。この若宮戸村は地方直しの原則である、五~六人以上に分割しないという規定からはずれる八給の村となった所であり、石下地域では村高の割りには、最も相給化の激しかった村である。
 
Ⅱ-9表 若宮戸村の分給
 
①稲生伊勢守
石   
145.5554
②初鹿野河内守145.7422
③富永鷲太郎145.7422
④佐々木寛四郎75.6480
⑤内藤隼人正75.6480
⑥坪内光太郎57.6377
⑦興津錦三郎56.1369
⑧小倉義太郎57.6356
 代官支配所13.2700
 常光寺除地0.4000
『旧高旧領取調帳』


 
 こうした若宮戸村に見られるような、機械的な均等分給は、元禄地方直しで広範にとられた配分方法であるが、村々ではこの分給によって、村からみれば分郷が複雑に成立させられたことになる。村の分郷は村高に対する知行高の比率によって分けられたといえ、原則として農民は一領主に属するように組まれ知行付百姓が決定された。それぞれの旗本知行地には、名主以下の村役人が各給ごとに設けられた。村では分郷以前から出入作などあり、耕地は領主の所領形態によって極度な入り組みをみせていた。
 旗本領になった村々をみると、たとえば若宮戸村と館方村とか、大房村と山口村とかいうように、同一郡内で同じような組み合せ方で知行地が与えられている。若宮戸村・館方村の組み合せはⅡ-8表の②坪内氏や③興津氏、⑨小倉氏などがある。大房村、山口村の組み合せは⑥朝倉氏、⑫小田切氏、⑮武田氏などがあげられる。これらのことは、同一郡内で知行地が与えられる場合は比較的隣接した村落を対象とし、同一組み合せによって知行地配分が機械的に実施されたことを示している。旗本たちの所領の分散化は、隣接した村々を知行地とすることで、一定地域には集中するように組み合せ、無原則な分散化を防いでいることがわかる。
 こうして石下地方の村々は、元禄地方直しによって一九名もの旗本が所領を持つことになり、その後も次々と旗本が所領を持ったり、あるいは他へ転じたりすることがくり返されるが、多くの村々は二人以上の旗本の相給の村として成立したのである。しかも、第一章第二節のⅠ-1表で示したように幕末まで豊田郡、岡田郡とも新田村を除いて、基本的には旗本相給、分給の村であるという特徴は維持され続けてきた。こうしたことからも元禄地方直しは、石下地域にとって大きな画期となったものであるといえよう。