用水と悪水

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現在の石下町域には、手入れの行き届いた耕地が一面に広がっている。この沃野とも言うべき景観は、私たちの祖先が汗や泥にまみれ、時には為政者に抗し、あるいは飢えや貧しさと闘いながら守り通してきた結晶に他ならない。江戸時代前期、全国的に新田開発がさかんとなり、あらたに多くの村々や耕地が誕生した。これには、用排水路の開設・整備が大前提であり、村々の存続及び安定耕地化のためにも、しっかりとした用水源の確保と排水路の整備が必要不可欠であったのである。
 江戸時代の石下町域開発の画期となったのは、幕府による利根川・鬼怒川・小貝川の一大改修工事であった。工事は、関東郡代伊奈半十郎忠治が管轄し、利根川の新河道開削・鬼怒・小貝両川の完全分離と鬼怒川の新河道開削等の大事業を含むものであった。この結果、従来は、鬼怒・小貝両川の氾濫におびやかされていた低湿地の本格的な開発が可能となったのである。それまでは、鬼怒・小貝両川沿いの小高い砂洲上、あるいは洪積台地の端に点在する村々にとって、眼前に広がる低湿地には、ほとんど手をつけられないでいた。鬼怒川の東、小貝川との間に広がる低湿地は、「豊田谷原」と称され、鬼怒・小貝両川の氾濫原同様の状況を呈し、最深部には妙見沼・蓮柄沼といった小沼が点在し、そこでは漁猟が行なえるほどであった。鬼怒川の西、洪積層の舌状台地の南には、広漠たる飯沼が大河のように広がり、台地間の低湿地には、国生沼・古間木沼・「入沼」といった沼々が点在し、農民たちの耕地拡大への道をさまたげていた。寛永六年(一六二九)の鬼怒川新河道開削、翌七年(一六三〇)の総検地に続いて、同十二年(一六三五)、伊奈半十郎忠治の管轄によって、鬼怒・小貝両川間の村々に待望の用排水路が開設された。いわゆる「四ケ所用水」と称される中居指用水・本宗道用水・原用水・三坂用水と八間堀悪水である。各用水は鬼怒川から取水し、取入口の村名を称するようになった。
 八間堀悪水は、下妻以南、水海道に至る耕地の一大幹線排水路であり、途中に点在する低湿地や沼々を干上がらせる上で必要不可欠な存在であった。名称の由来は諸説あるが、堀幅八間説が有力である。勿論、村々にとっては、それ以外の用水源、あるいは小規模な排水路が存在した。たとえば、妙見沼は、「留沼」=溜池の機能を有し、豊田・新石下両村御領所分の用水源であった(篠崎育男家文書)。
 また、一方、これらの沼々が徐々に干上がるにつれて、沼の権益や帰属をめぐっての村々の争いも頻発するようになるが、この点については新田開発との関連で後述することにする。
 前述のように、寛永十二年(一六三五)に開設された、中居指・本宗道・原・三坂の「四ケ所用水」と八間堀悪水については、開設当初の具体的な状況はさだかではない。ただ、同じ鬼怒川を用水源とする中居指・本宗道・原・三坂の「四ケ所用水」は、きわめて密接な関係にあり、後の江連用水の基礎になっているのである。文政四年(一八二一)の史料(「常総弐邦鬼怒川通組合郷村高牒」)から、これらの用水・悪水の状況をさぐってみたい。
 中居指用水は、現在の下妻市中居指地先の鬼怒川に圦樋(取水施設)を設け、中居指圦(いり)とも呼ばれ、同地から東方に流れ、当時の下総国豊田郡北端の村々を灌漑していた。Ⅲ-1表は、同用水を利用する村々が組織した用水組合の概況である。ただ同用水は、直接には、石下町域の村々には関係しないので詳しい説明は省略する。本宗道用水は、現在の千代川村本宗道地先の鬼怒川に圦樋を設け、本宗道圦とも呼ばれ、同地から、当地の下総国豊田郡を南北に縦走する「四ケ所用水」の中では最大規模の用水であった。Ⅲ-2表は、同用水組合の概況であるが、組合村々は、上郷一〇か村、中郷七か村、下郷九か村の三組に分かれ、現在の千代川村から水海道市に至る広範囲な地域が含まれ、三組の村々の立地・水利条件も異なるため、利害の対立も多く、組合運営に支障が生じやすかった。石下町域で同用水を利用していたのは、若宮戸・小保川の北部二か村であった。
 
Ⅲ-1表 中居指用水組合高(文政4年)
村 名加入高(石)領 主 別 加 入 高 内 訳 (石)
下 栗399. 042 幕領(279.595)石谷鉄之丞(119.447)
田 下246. 538 稲生七郎右衛門(82.1793)冨永喜三郎(82.1793)
初鹿野河内守(82.1793)
新宗道609. 59 蜷川相模守(82.3569)服部七兵衛(7.211)松平斧太郎(90.6748)
大沢主馬(75.2041)山田専之助(72.3898)山下権太郎(279.0368)
蜷川相模守(2.7166)
本宗道376. 724 幕領
見 田354. 429 林藤九郎
唐 崎365. 512 庵原八太郎
大園木868. 58 長瀞藩領(米津伊勢守572.59)仙台藩領(松平陸奥守295.99)
新 堀343. 061 長瀞藩領(米津伊勢守)
加 養2 039. 637 土井銓之允(802.008)山高新右衛門(332.587)森川三左衛門(336.19)
冨永喜三郎(42.1538)初鹿野河内守(42.1536)
稲生七郎右衛門(42.1536)山高新右衛門(46.633)
幕領(7.8247)
肘 谷353.7176 松平右近(260.9602)長田幾之助(37.7467)森川国三郎(37.0019)
幕領(18.0088)
山 尻474. 852 高城清右衛門(79.142)土岐市右衛門(79.142)佐橋主水(79.142)
榊原主計頭(79.142)蜷川相模守(79.142)岩瀬市兵衛(79.142)
谷田部159. 337 朝倉祐太郎(51.5613)武田与左衛門(51.5613)
小田切内蔵頭(52.1554)幕領(4.059)
柳 原432.0978 蜷川相模守(72.0163)土岐市右衛門(72.0163)榊原主計頭(72.0163)
高城清右衛門(72.0163)岩瀬市兵衛(72.0163)佐橋主水(72.0163)
樋 橋404. 942 幕領(11.72454)服部七兵衛(238.4247)六郷主馬(52.5754)
遠山左衛門尉(50.9234)大河原亀三郎(51.30396)


 
Ⅲ-2表 本宗道用水高(文政4年)
村  名加入高(石)領 主 別 加 入 高 内 訳 (石)
◎若宮戸759.6382 初鹿野河内守(145.5554)冨永喜三郎(145.5554)
稲生七郎右衛門(145.5554)内藤熊太郎(75.4464)
佐々木金八郎(75.4464)興津兵左衛門(55.6354)
坪内源五郎(55.6354)小倉市蔵(55.6354)
常光寺除地(0.4)村持除地(4.773)
◎ 鯨1 076.3733 松平右近(1075.44)花蔵院除地(0.5)福蔵院除地(0.4333)
◎長 萱287. 855 久永彦右衛門
◎伊古立249. 813 林藤九郎
◎渋 田27. 43 山角政吉
◎ 原757. 467 幕領(9.00988)本多伊織(625.43982)山田立長(121.7173)
大聖院除地(1.3)
◎新宗道50.   山下権太郎(22.89)服部七兵衛(0.592)蜷川相模守(7.208)
大沢主馬(5.937)山田専之助(5.937)松平斧太郎(7.436)
◎小保川391. 896 蜷川相模守(111.391)井関祐悦(272.709)光明院除地(1.8)
太郎右衛門除地(6.)
◎羽 子127. 495 井関祐悦(115.904)東蔵院除地(2.)長瀞藩領(米津伊勢守9.591)
◎本宗道383. 541 幕領(376.724)宗任神社朱印地(5.)神主出雲除地(1.817)
△三坂新田455. 165 石谷鉄之丞
△福 田289. 148 渡辺権兵衛(288.043)明徳寺除地(0.5)吉兵衛除地(0.6)
△福 崎381.2048 庵原弥市郎(31.4628)岩瀬市兵衛(58.097)
蜷川相模守(58.097)土岐市右衛門(58.097)
榊原主計頭(58.097)佐橋鉄之助(58.097)
高城清右衛門(58.097)観明院(0.56)久右衛門除地(0.6)
△上 蛇1 108.0432 内藤熊太郎(162.9707)森川三左衛門(156.1766)
冨永喜三郎(151.0255)稲生七郎右衛門(151.0255)
佐々木金八郎(162.9707)初鹿野河内守(3.4)
長田幾之助(2.3)新右衛門,伊右衛門除地(10.9721)
△中 山416. 359 幕領(206.1045)竹本茂右衛門(103.0522)井上熊蔵(103.5)
権兵衛,儀左衛門,角右衛門除地(0.5)普賢院除地(0.15)
△中 妻420.   幕領
△沖新田242. 771 蜷川相模守(240.3)松岳院(2.258)福松院(0.213)
×平右衛門新田204. 496 幕領(佐藤忠右衛門203.596)明鏡院(0.2)太郎兵衛(0.7)
×長助新田204. 918 幕領(佐藤忠右衛門)
×大 崎480. 72 幕領(佐藤忠右衛門466.62)長楽寺(5.)広大寺(4.45)
八幡免除地(1.8)大日免除地(0.35)弥左衛門除地(2.5)
 
村  名加入高(石)領 主 別 加 入 高 内 訳 (石)
×上月崎355. 491 幕領(31.4589)竹田甚五郎(324.0321)
×中川崎229. 588 河野源左衛門
×下川崎113. 545 幕領(佐藤忠右衛門11.3545)天野清兵衛(102.1905)
×十 花755. 257 酒井作右衛門(583.72779)建部左源太(170.26921)
金剛院除地(1.26)
×箕 輪201. 89 幕領(佐藤忠右衛門199.49)彦右衛門除地(1.2)
彦左衛門除地(1.2)
×兵右衛門新田158. 923 酒井作右衛門
1 ◎印…上郷 △…中郷 ×…下郷
2 本宗道,新宗道2か村は中居指用水組合にも加入
3 中妻村は三坂用水組合にも加入


 
 原用水は、現在の千代川村原地先の鬼怒川に圦樋を設け、原圦とも呼ばれ、本宗道用水とほぼ並行して豊田郡中部を南北に縦走し、組合村はすべて現在の石下町域の村々であって、原宿・上石下・中石下・本石下・新石下・大房・東野原・山口・平内・収納谷・曲田の一一か村から成り立っていた。組合高は、Ⅲ-3表によれば五一四三石余、内訳は、幕領五二三石余(一〇・二%)、私領四六二〇石余(八九・八%)。田高は、二七八六石余、内訳は、幕領二八九石余、私領二五九六石余。灌漑田反別は、二八〇町四反四畝歩、内訳は幕領二六町五反一畝二六歩半、私領二五三町九反二畝三歩半である。Ⅲ-3表からはまた、当時の分轄支配、旗本知行所集中の一端をうかがい知ることができる。同用水は、後述の江連用水再興運動の際、当初から消極的で、途中からは再興反対・江連用水不用の立場に立つようになる。これらの背景・経過等は、第七章に詳述してある。
 
Ⅲ-3表 原用水組合高(文政4年)
村 名加入高(石)領 主 別 加 入 高 内 訳 (石)
原 宿434. 508 上原藤五郎(289.792)佐野肥前守(144.716)
上石下460. 516 幕領(444.25)松平右近(16.266)
中石下206. 356 山本越前守
本石下934. 98 土屋三郎右衛門(148.6036)榊原主計頭(2.21)興津兵左衛門(721.238)上原藤五郎(62.9284)
新石下1 659. 759 小倉市蔵(485.247)岡田左太郎(359.743)窪田勘右衛門(313.061)井関祐悦(313.062)岡田与助(188.646)
大 房254. 225 朝倉祐太郎(84.741)武田与左衛門(84.742)小田切内蔵頭(84.742)
東野原260. 18 幕領(79.0203)土岐市右衛門(3.6221)佐橋鉄三郎(0.8387)
山田権次郎(176.6989)
山 口275. 673 小田切内蔵頭(91.891)朝倉祐太郎(91.891)武田与左衛門(91.891)
平 内125. 857 松平次郎左衛門
収納谷107. 315 松平次郎左衛門
曲 田424.1059 松平次郎左衛門(267.1299)森川国三郎(78.488)長田幾之助(78.488)


 
 三坂用水は、Ⅲ-4表によれば「四ケ所用水」最小規模の用水で組合村も三か村大半が幕領である。現在の水海道市三坂地先の鬼怒川に圦樋を設け、三坂圦とも呼ばれ、鬼怒川沿いを灌漑していた。また、同用水組合は、原用水組合と同様に、江連用水再興には消極的で、原用水組合と行動を共にした。
 
Ⅲ-4表 三坂用水組合高(文政4年)
村 名加入高(石)領 主 別 加 入 高 内 訳 (石)
小山戸267. 741 幕領(吉岡次郎右衛門)
中 妻1 420. 941 同上(同人)
三 坂1 756.1305 同上(同人504.243)佐野肥前守(591.202)山本越前守(578.423)山田権次郎(72.065)高城清右衛門(4.2435)朝倉祐太郎(3.242)森川主膳(2.712)


 
 以上が、鬼怒川東に存在した「四ケ所用水」の概況であるが、石下町域の村々の内には、これらの用水組合に加入していない村がある。館方・豊田・本豊田の小貝川沿いの三か村である。これら三か村は、「無用水」の村と記され、天水や本宗道用水の残水を利用していたが、一方では、上流村々の悪水が集中して水損・水腐場が多く、大水の時などは、小貝川の水が逆流する有様で享保年間、本豊田村では二四軒の内、一四軒が潰百姓同様となり、耕作には老人・妻子があたり、当主は奉公に出るしかないような状況におちいっている(篠崎育男家文書)。