なお、八間堀に関して興味深い一件がある。文化七年(一八一〇)下野国芳賀郡小貫村(現栃木県茂木町)の名主万右衛門等によって小貝川通船計画が立案され、幕府に出願されている。小貫村は、芳賀郡東部の山あいの村で主要河川交通路である鬼怒川から遠くはなれているため、主要産物である薪炭生産・輸送に不利であった。下野国の代表的農書「農家捷径抄」の著者でもある篤農家万右衛門の発案によるこの計画は、下野国から常陸国に至るまでの小貝川を掘り広げて通船を可能とし、さらに豊田村地先から八間堀へ掘り継ぎ、八間堀を経由して鬼怒川へ連絡させるというものであった。
この計画には、小貫村と同じように鬼怒川から遠くはなれた下野国・常陸国のいくつかの村々からの参画者が見られるが、石下町域からの参画者は見られない。わずかに、八間堀下流の豊田郡上川崎村(現水海道市)の名主太郎左衛門が参画しているだけである。恐らく、彼が小貝川下流域、八間堀流域での問題処理を担当することになっていたものと思われる。
しかし、この計画は、鬼怒川筋河岸問屋の反対の恐れや大規模開削工事に伴う資金調達面で前途を危ぶみ、参画者の間で不協和音が目立ち、計画のみに終わってしまったのである(『下野の老農 小貫万右衛門』)。この一件は史料的にあまり明らかではないが、計画自体、大変スケールの大きなもので、実現させるには相当の日時と費用を要し、小貝川・八間堀・鬼怒川流域の村々との交渉にも相当の日時を要することになったと思われる。特に鬼怒川筋の河岸問屋にとっては、経済的打撃が大きく猛反対することが予想され、八間堀流域にとっては、八間堀の大改修に伴う負担増加から簡単には了承しなかったと思われる。また、幕府もこのような利害を考慮すれば、早急に決断を下せる問題ではなかったと思われる。
Ⅲ-1図 八間堀と田園風景