水利施設をめぐる動き

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江戸時代前期の水利施設に関する史料としては、寛文七年(一六六七)、向石下村で新しく水門を施工するに際し、水門の用材を書き上げたものが増田務家に残されている。これには、用材の数量・寸法等が記され、向石下村大学(増田家)、宇左衛門、勘兵衛、大工の図書の四人が連名で用材を注文している(増田務家文書)。しかし、このように施工された水利施設も毎年のように地元農民が維持・修繕に努めなければならず、農民達にとっても大きな負担となっていった。本豊田村では、悪水圦(排水口)が年々狭まり、耕地が冠水の恐れが出てきたため、延宝六年(一六七八)、本石下・豊田両村と共に、幕府に対し、武州北河原村にあった古圦道具一式を転用したい旨を出願し、移築費用は地元負担でまかなうこととし、翌七年に移築した。その際の費用及び余った材木について、三か村の名主・組頭が相談し、余った材木は、本豊田・豊田両村が折半して買い取ることで決着した。しかし、移築費用の分担をめぐっては三か村の利害が対立し、当初、三か村の田方畝歩に応じて捻出することにしたが、豊田村のみが遅れたため、本豊田村が催促すると、豊田村では費用の田方畝歩割に対し、村内の小百姓が抵抗しているため仲々捻出できず、今しばらく猶予してほしい旨を回答してきた。
 しかし、天和二年(一六八二)十二月になっても豊田村から何の沙汰もないため、本豊田村は、豊田村の領主太田摂津守役人まで訴訟する旨の警告を発したが、事態は一向に進展しなかった。翌三年本豊田村は先の警告通りに豊田村の「百姓衆我儘」を太田摂津守の代官に訴え出た。この一件のその後の推移は明らかではないが、本豊田・豊田両村共、小貝川沿いに立地し、鬼怒川水系のいわゆる「四ケ所用水」の恩恵をあまりうけず、用水組合にも加入していないため、上流からの余水や天水に依存する度合いが強かった。
 また、用水組合に加入していないため、自前で水利施設を施工・維持しなければならず、費用軽減の点を考慮し、わざわざ遠方の武州から中古の施設用材を取り寄せているのである。しかし、この費用ですら豊田村のように村内の小百姓層の抵抗によって、仲々集金できないという事態におちいっている。このことは、水利施設施工・修繕の地元負担がいかに重荷であったかを物語ると共に、村内での小百姓層の成長によって、彼らが村の動向を左右するようになったことがうかがえる(篠崎育男家文書)。