一方、本豊田村では、宝永七年(一七一〇)に豊田村との間で用水出入が起きている。これは、豊田村が館方村地先の用水堀へ新規の堰水門を構築したため、下流の本豊田村に用水が流れにくくなったことに起因する。
本豊田村では豊田村を幕府へ訴え出るべく、同年三月に惣百姓三一名の連判帳を作成して、村内の意志統一と一致団結を計り、四月には勘定奉行所へ追訴を行なっている。
この時の訴状によれば、本豊田・豊田両村の間では、伊奈半十郎忠治支配の幕領時以来、「横堀」から用水を引入れる際、昼は本豊田村、夜は上流の豊田村という具合に決め、これが慣行として続いていたが、豊田村が旗本知行所になってからは、同村は用水不足になると「横堀」へ土留を行ない、夜は見張り番を置き、下流に一切用水を流さないようにしてしまったのである。これに対し、本豊田村は、従来の慣行遵守を訴え出たのである(篠崎育男家文書)。
続いて正徳二年(一七一二)本豊田・豊田両村は、北隣の鯨・伊古立両村(現千代川村)と共に隣接する館方村との間で、圦樋伏込をめぐって争論を起こしている。幕府評定所まで上告された史料によれば、この一件は館方村が用水堀に圦樋を新築したため、下流の本豊田・豊田両村では用水不足となり、逆に上流の鯨・伊古立両村では悪水が落ち兼ねるようになってしまったことに起因する。館方村の主張は圦樋は新築ではなく、従来からあった圦樋を伏替したにすぎず、この圦樋は館方村にとって必要不可欠であるというものであった。
幕府役人の実地見分・吟味の結果、本豊田・豊田・鯨・伊古立四か村の指摘した館方村圦樋新築の非法については、古絵図の該当箇所に判然とはしないものの、圦樋あるいは草堰らしきものが記入されており、新築とは断定できず、また館方村は従来から該当箇所より引水しているという慣行を尊重し、館方村の主張を認めた。ただし、下流の本豊田・豊田両村が用水に不足しないように、昼間三時(六時間)の間、圦樋を開き用水を下流に流すようにとの裁決が下り、鯨・伊古立両村の悪水滞留については、実地見分ではとくに問題は無いとして退けられた。しかし、この争論の問題箇所をめぐっては、その後、天明七年(一七八七)にも豊田村と館方村との間で堤構築の件で争論が起り、幕府評定所まで裁決が持ちこまれている(篠崎育男家文書、新井清家文書)。
このように、「四ケ所用水」組合に加入せず、同用水の余水と天水に依存し、いわば「無用水」の村であった館方・豊田・本豊田三か村は、それ故に水利問題はより深刻で水利慣行をめぐる三か村相互、及び隣接諸村との利害対立が頻発しているのである。