一方、鬼怒川西方の村々での水利をめぐる動向はどうであったのであろうか。古間木・蔵持・大輪(現水海道市)、花嶋(同上)、羽生(同上)の五か村は、古間木沼を用水源としていたが、延宝八年(一六八〇)以来、数度にわたって、古間木沼を干拓し、新田を造成しようとする計画が地元大輪村百姓と江戸町人資本によって立案され、同沼を用水源とする五か村のために、鬼怒川を水源とする代用水堀も開削された。
しかし、代用水堀開削に先立っての関係諸村、とりわけ取入口たる鎌庭村(現千代川村)と堀筋にあたる国生・向石下両村との協議が不十分であったため、用水堀は完成したものの、これら三か村が水損・潰地・道橋の新規普請等を理由に反対したため、代用水堀への通水は中止となり、古間木沼干拓自体も中止同様になった。
享保五年(一七二〇)大輪村金左衛門・江戸新材木町久右衛門・同本所御台所町藤懸屋武左衛門・同金五郎によって古間木沼干拓の願書が再提出され、同沼を用水源としている古間木・蔵持・大輪・花嶋・羽生各村の代用水として、国生村地先の鬼怒川から取水することとし、向石下・国生両村地内を新規掘削する代用水堀開削案が提示された。これに対し、向石下・国生両村は、この案では用水堀が向石下・国生両村の谷ツ田を分断してしまうため、本来、谷ツ田から両村の用水源である国生沼へ落ちる水が用水堀に落ちてしまい、渇水の恐れがある。用水堀への新規の道橋普請にともなう経費負担の増加が避けられない。鬼怒川大水にともなう用水堀からの出水によって水損の恐れがあるとして、古間木沼干拓自体には反対しないものの、代用水堀開削に反対している。この問題は、幕府勘定奉行所まで提訴され、双方召喚の上、大輪村金左衛門ら古間木沼の新田開発請負願人四名から代用水堀の路線変更が申し出され、向石下・国生両村地内への掘削は取り止める旨の証文が作成された(増田務家文書)。
その後の経過は明らかではないが、古間木沼干拓自体は、飯沼干拓の一環として本格的に着手されており、大輪村金左衛門らの計画は、順調には進まなかったと考えられる。なお、古間木沼干拓については、次節で詳しく述べることにする。
ともあれ、古間木沼干拓にともなう代用水堀の開削、それに対する関係諸村の利害対立が代用水堀開削のみならず、古間木沼干拓に大きな支障を及ぼしていたのである。これは、水利をめぐる関係諸村の利害対立を早期に収拾しないかぎり、水利事業はなかなか達成できないということを如実に示している。