妙見沼の権益についての争論

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江戸時代、農民の耕地拡大の企てや用悪水路の整備に伴い、徐々に干上りつつある低湿地や、従来は周辺村落の入会地であった原野等をめぐって、村落間や村落内部では権益をめぐる対立が顕著になっていった。その代表的、かつ大規模な事例が飯沼干拓であるが、他にも権益をめぐって争論が頻発した中小の沼地や原野が存在した。鬼怒川・小貝川間の最深部に残存する妙見沼・蓮柄沼や、飯沼に隣接する古間木沼・国生沼及び飯沼周縁部の干上り地等である。
 「四ケ所用水」と八間堀の開削によって、低湿地の干上りが進行した鬼怒・小貝両川間では、これら可耕地をめぐって旧来の権益や、村落内部の農民動向を背景に争論が頻発している。
 寛文元年(一六六一)新石下村と豊田村との間で両村地先の妙見沼の権益をめぐって争論が発生した。妙見沼は元文四年(一七三九)の史料によると面積一一町歩余の小沼であった。この争論は、新石下・豊田両村間の争論というよりも、むしろ新石下村草分け名主孫兵衛(小口氏)個人と豊田村(本豊田村)との間の争論という性格が強い。
 孫兵衛が勘定奉行所に提訴した史料によると、新石下村は慶長七年(一六〇二)伊奈備前守忠次の見立てにより、孫兵衛の曾祖父主計に開発が認可されて成立し、その際に除地(年貢免除地)も認められた。その除地の中に妙見沼も含まれており、妙見沼の権益は孫兵衛家に帰属するというものであった(篠崎育男家文書)。ところが、明暦元年(一六五五)豊田村の名主百姓が勝手に沼で網を仕掛けて魚猟をするに至ったため、孫兵衛は対抗処置として魚猟用の舟三艘を取り押さえ、豊田村側の返却要請に対しても、今後のことを考えて返却しなかった。
 さらに明暦三年(一六五七)代官伊奈半弥治詣の手代藤田十郎右衛門の指図を受けた豊田郡火橋村(現下妻市樋橋)の源右衛門から、同年の江戸大火(明暦大火)に対する救恤策の一環として妙見沼で捕獲した魚を幕府へ献上するべき旨の相談があった。これに対し孫兵衛は、妙見沼は先祖代々支配してきた沼であるので、自分で網を仕掛けて魚を献上すると返答し、早速鯉二匹、平フナ三匹を藤田十郎右衛門に献上した。しかし、献上した魚は返却され、これと相前後して豊田村側が藤田十郎右衛門の命令だとして、妙見沼で魚猟を始め、魚を献上するに至った。この際、孫兵衛は幕府への魚献上という点を考慮してか、豊田村側の行為を黙認したため、それ以来、豊田村側は妙見沼で勝手に魚猟するようになってしまった(篠崎育男家文書)。
 寛文元年(一六六一)豊田村側の行為が我慢できなくなった孫兵衛は、勘定奉行所へ豊田村を提訴し、妙見沼は「新石下村之内」とする証拠絵図も提出した。同年八月十八日勘定奉行曾根源左衛門の裁断が下り、妙見沼は幕領耕地の用水源であるから一切干拓等を行なってはいけない。また出水等で沼廻りが破損した場合も修繕するにとどめ、余計な手を加えてはいけない。そして問題の沼の権益と帰属については、沼は豊田村・新石下村両村の入会地であるとの判断を示したのである(篠崎育男家文書)。
 妙見沼の独占的権益の保持を意図した孫兵衛にとっては、意図に反して敗訴同然の裁断が下ってしまったわけであるが、この一件以後、妙見沼は豊田村と新石下村孫兵衛家の入会地として把握され、妙見沼に対する孫兵衛家の権益も独占はならなかったものの一応保障されたのである。一方、豊田村はその後の本豊田・豊田両村への分郷に伴い、妙見沼に対する権益は本豊田村が継承することになったのである。
 

Ⅲ-2図 争論関係文書(篠崎育男氏蔵)