妙見沼の開発にかかわる争論

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その後、享保年間に入り、当地域の新田開発を推進していた井沢弥惣兵衛に対し、他村から妙見沼新田開発願いが提出された。これに対し、地元二か村(本豊田、新石下)は、他村からの新田開発が認可されては、従来の権益が否定されるだけでなく、重要な用水源及び悪水溜りを失い、用悪水に支障が出る恐れがあるとして反対した。さらに地元二か村が協議の上、地元で新田開発を行ないたいので井沢弥惣兵衛の出張を願い出た。しかし、井沢の現地視察は実現したものの、その後、井沢から何の沙汰もなく、事態の進展は見なかった(篠崎育男家文書)。
 元文三年(一七三八)妙見沼の新田開発に積極的な本豊田村は、代官幸田善太夫に対し、再び地元請新田開発を願い出たが、妙見沼の排水工事を行なうには、幹線悪水堀である八間堀を改修しなければならず、改修には相当の経費を要するという理由で延期となった。
 このように本豊田村は、地元以外からの開発願いに直面し、従来からの権益保持のために新田開発を推進していった。しかし、翌四年(一七三九)春、妙見沼入会の一方である新石下村が新田開発に故障を申し立てるに至った。このため本豊田村は同年五月、寛文元年(一六六一)の訴訟裁定を持ち出し、妙見沼は本豊田村と新石下村孫兵衛の入会地であり、故障を申し立てているのは孫兵衛一人だけであるので、一日も早く新田開発を認可して欲しい旨を願い出ている(篠崎育男家文書)。
 一方、地元以外からの新田開発願いの動きも続けられ、同年八月、崎房村三太夫(秋葉氏)と若宮戸村六郎兵衛が妙見沼の新田開発を願い出ている。崎房村三太夫は、いうまでもなく飯沼新田開発に活躍した人物であり、飯沼での経験を生かし、妙見沼新田開発にも投資して経営拡大を意図したものと思われる。この時、三太夫・六郎兵衛と地元関係者の間で開発引請地の地割りが策定され、六割が三太夫と六郎兵衛、四割が新石下村孫兵衛と本豊田村平左衛門(篠崎氏)が引請けるというものであった(篠崎育男家文書)。しかし、この計画はその後、一向に進展が見られず、三太夫と六郎兵衛の妙見沼新田開発への参画は実現しなかったが、今まで地元と地元以外との二つに別れていた開発願いの動きを一つにまとめると同時に、本豊田村と新石下村孫兵衛の、妙見沼権益をめぐる根深い対立によって暗礁に乗り上げていた、妙見沼新田開発に相当な衝撃を与えた。
 その後、開発をめぐる状況は好転し、寛保三年(一七四三)普請の見積りがなされ、翌年正月から普請が着手された。延享三年(一七四六)には新田検地が実施され、本豊田村伝内・与右衛門・平左衛門の三人請と新石下村孫兵衛請という無民家の妙見沼新田が成立した。
 本豊田村三人請は、高一九石三斗六升九合、反別三町六反一畝三歩。新石下村孫兵衛請は、高一五石一斗四升二合、反別三町一反二畝と定められた(篠崎育男家文書)。しかし、「新田之儀、水中ニて葭真菰(あしまこも)等生茂り、作付難相成場所」(篠崎育男家文書)、「妙見沼之義は、御開発出来兼可申御場所と、私方惣百姓乍恐奉存」(新井清家文書)という状態で、特に排水施設が不十分で大雨の度に上流からの出水によって冠水することがしばしばであった。この問題が一応の解決をみるのは、文政~天保年間にかけての江連用水再興の一環として悪水路が整備・拡張されてからである。