蓮柄沼をめぐる争論

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次に、小保川・本石下・上石下・中石下・原宿・豊田各村の地先に広がっていた蓮柄沼の場合、沼廻り村々の権益をめぐる争論は、より激しいものであった。蓮柄沼は「たて沼」とも称し、小保川村では「小保川沼」とも呼んでいた。争論は、宝永七年(一七一〇)小保川村が前記六か村の入会地である蓮柄沼の新田開発を企て、他の五か村へ申し入れてきたことに起因する。これに対し五か村側は、沼は重要な用水源であり、沼を干拓して新田開発を行なえば、本田畑の作付けに支障が生じるとして、所轄代官の町野惣右衛門に反対訴訟を行なった(吉原文雄家文書、新井清家文書)。
 しかし小保川村は、正徳二年(一七一二)七月、所轄代官小林又左衛門、南条金左衛門に対し、蓮柄沼は南北五〇〇間余、東西一〇〇〇間余の広さがあり、「小保川沼」とも呼ばれてきたことからもわかるように、沼に関する権益は小保川村が優先すると訴えた。さらに近年本石下・上石下・中石下の三か村が沼縁に植付けを広げ、沼を狭めており、小保川村の抗議も聞き入れずにいる。また宝永七年(一七一〇)に、小保川村が沼の新田開発を企てた際に反対したにもかかわらず、三か村は勝手に沼縁に植付けを広げ、「開発」していると三か村の行為をきびしく非難し、代官所の裁断を求めている。
 同年八月三日、双方が代官所に召喚され、最初の裁定が下された。代官裁定は、小保川村の蓮柄沼権益の優先性を退け、沼廻りには同村耕地が一片すら存在しないのであるから、蓮柄沼は本石下・上石下・中石下・原宿・豊田の沼廻り五か村の入会地であるという内容であった(吉原文雄家文書、新井清家文書)。勿論、小保川村はこの裁定には承服できず、早速、幕府評定所へ上告し、一方の本石下・上石下・中石下の三か村は、同年九月に廻村中の幕府巡見使に小保川村との争論の経緯を報告し、翌年二月には本石下・上石下・中石下・原宿・豊田の沼廻り五か村が、幕府勘定奉行所へ双方から絵図を提出して、吟味して欲しい旨を訴え出た(吉原文雄家文書)。そして、双方提出の絵図吟味の結果、同年五月二十五日に幕府評定所の裁断が下った。この最終裁断は所轄代官所の最初の裁断に基づき、小保川村の主張を全面的に退け、蓮柄沼は沼廻り五か村の入会地とし、沼権益への小保川村の干渉を否定する内容であった(新井清家文書)
 

Ⅲ-3図 蓮柄沼の図(新井清氏蔵)

 その後、蓮柄沼は沼廻り五か村の入会地として存続していったが、享保年間(一七一六~三五)に入り、幕府の年貢増徴策の一環として新田開発が奨励された。蓮柄沼についても小保川村と常陸国筑波郡小張村(現伊奈町)の者、さらに吉沼五郎兵衛(吉沼村か)なる者が相ついで沼を干拓して新田開発したい旨を願い出るようになった(吉原文雄家文書)。
 

Ⅲ-4図 蓮柄沼開発の願書(吉原文男氏蔵)

 このような状況に危機感をいだいた沼廻り五か村は、享保八年(一七二三)正月、所轄代官小宮山木工進に対し、正徳三年(一七一三)の小保川村との争論裁決によって確定された沼権益を保持するために沼廻り五か村での新田開発を願い出た(吉原文雄家文書)。この出願のその後の状況は明らかではないが、延享三年(一七四六)には新田検地が実施され、本石下村八右衛門(吉原氏)請と豊田村政右衛門請という無民家の蓮柄沼新田が成立した。八右衛門請は、高一三石九斗七合、反別二町三反一畝三歩。政右衛門請は、高七石六斗八升六合・反別一町二反八畝六歩と定められた(篠崎育男家文書、吉原文雄家文書)。しかし、妙見沼新田と同様にすぐには恵まれた耕地とはならなかった。とくに排水施設の問題が未解決であったため、上流からの出水の度に冠水してしまい、悪水堀も年々埋まってしまい、元治元年(一八六四)には大規模な堀浚いや藻苅り工事を実施している(新井清家文書、篠崎育男家文書)。