新田開発の具体化

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このように、妙見沼と蓮柄沼は、沼の権益や帰属をめぐって沼廻り村々の間で争論が繰り返され、小規模な沼にもかかわらず、本格的な開発の手が伸びずに入会地として存続していた。享保年間(一七一六~一七三五)に入り、両沼とも幕府の新田開発奨励と、これに伴っての他村からの新田開発願いの続出に刺激され、沼廻り村々による新田開発が具体化されていったのである。これは、過去の激しい争論の結果、獲得しえた権益を保持するための沼廻村々の積極的対応策であった。
 しかし、開発に着手されるまでには相当の時間を要し、沼廻り村落間の利害・排水問題等の調整が必要であった。とくに両沼とも鬼怒・小貝両川間の最深部に位置・残存しているという地形的要因から、上流村々の悪水溜りの機能を有する一方、沼廻り耕地の用水源でもあった。また、沼を干拓するには、地域の幹線排水路である八間堀を改修しなければならず、この問題は沼廻り村だけの問題にとどまらず、広く鬼怒・小貝両川間の豊田郡一帯にかかわる、重要な問題でもあったのである。
 なお、延享三年(一七四六)の新田検地によって成立した妙見沼新田・蓮柄沼新田は、成立時から排水問題が大きな障害となり、大雨の度に上流からの出水で冠水することが多く、なかなか安定した耕地にはならず、明治初年には無民家の両新田とも、個々請人居住の村落に吸収合併されていった。