享保年間以前の飯沼は、沼廻り二三か村が藻草や秣を採取して田畑の肥料にする一方、小舟を浮かべて漁猟をいとなむ二三か村入会の沼であった。しかし、鬼怒川新河道開削に起因する沼水位低下によって、周縁部に干上り地が徐々に生じるにしたがい、干上り地の境界や地先の権益をめぐって多くの争論が生起するようになった。寛文年間、飯沼周縁部のひとつで、栗山、崎房、鴻野山、法木田(馬場)、尾崎の五か村地先にはいりこんでいた「入沼」を舞台に、地境争論と漁猟権をめぐる争論が生起している。地境争論の方は、栗山、法木田(馬場)、鴻野山の三か村と崎房・尾崎の二か村との間で起き、原因は「入沼」の干上り地が自然増加し、互いに地先の干上り地の帰属を主張したことによる。寛文元年(一六六一)六月十八日、幕府評定所は、「入沼」は前記五か村の入会沼とするとの裁定を下した(日本大学寄託秋葉光夫家文書・秋葉紋子家文書)。
Ⅲ-5図 堀筋大概図(『飯湖新発記』所収)
しかし、「入沼」をめぐっては、干上り地の増加に伴い、五か村地先が変動していったため、干上り地の帰属問題が年々深刻となり、宝永年間に至るまで争論が続発していった。一方、「入沼」の漁猟権をめぐっても、寛文元年(一六六一)に争論が起きている。この争論は、崎房、崎房村の新田である尾崎新田二か村と栗山村との間で起き、原因は崎房・尾崎新田側が「入沼」は「御留沼」「崎房村之沼」であり、従来より藩役人・代官手代・江戸の網引請負人等によって漁猟が行なわれ、また崎房村も代々の関宿藩領主や代官から魚の運上を命ぜられてきたとし、既得権に基づく沼の優先的帰属権を主張した。
一方栗山村は、「入沼」は栗山・崎房・鴻野山・法木田(馬場)、尾崎五か村の「入相沼」「栗山村之沼」であり、栗山村も従来から沼での漁猟が認められていたと主張したことによる。
この争論は、第一義的には「入沼」の漁猟権及び藻草等採取権をめぐり、双方が既得権及び既成事実を背景にして、優先的帰属権を争ったものである(日本大学寄託秋葉光夫家文書)。しかし、よりさしせまった背景には、年々自然発生的に増加する干上り地の帰属をめぐる双方の思惑があったのである。双方とも「崎房村之沼」「栗山村之沼」というように沼の占有権を主張する一方で、「御留沼」「入会沼」という相矛盾する既成事実を拠り所にして、互いに譲らなかったのである。この争論の結末は明らかではないが、先の地境争論の際に幕府評定所が「入沼」は五か村入会とする裁定を下しており、この裁定と密接に関連しており、争論の内容・関係村々・時期の点から、同一の争論であった可能性が大きい。
Ⅲ-6図 「入沼」をめぐる争論史料(秋葉紋子氏蔵)
このような争論は、他の飯沼周縁部においても多発していた。貞享末年から元禄二年(一六六九)にかけて、古間木村と大生郷村(現水海道市)との間で、両村地先の干上り地の地境争論が起きている。争論の過程では、大生郷村農民が大挙して論所へ押しかけ、古間木村農民が植えつけた作物を荒らし、論所付近の防風林を伐採してしまうなどの実力行使に出るほど過熱していった(稲葉則雄家文書)。元禄元年八月、古間木村は相手方大生郷村領主太田摂津守へ大生郷村の行為を出訴しても埒が明かないため、幕府勘定奉行所へ提訴し、局面の打開をはかった。しかし同年十二月、論所は大生郷村の地とし、大生郷村農民のとった行為は是認されるという裁定が下る結果となった。
翌元禄二年(一六八九)三月、先の裁定に承服できない古間木村は幕府勘定奉行所へ再提訴し、ついで同年八月と相ついで論所の再吟味と、古間木村側権益の正当性を主張する訴願を行なっている(稲葉則雄家文書)。この争論の結末は明らかではないが、これら同時多発的に生起した争論を通して、飯沼廻り村々にとって眼前に年々増加しつつある干上り地の帰属問題が如何に深刻であり、かつ重要課題であったことがうかがわれる。それは一方で耕地獲得・拡大に固執する農民の眼を、より大量に耕地の獲得・拡大が期待できる本格的な飯沼干拓計画の方へ向けさせていく、農民的エネルギーと地域的結集の大きな源泉になったとも思われるのである。
このように飯沼廻り村々にとって、眼前の干上り地や沼の権益に固執し、互いに分立抗争する情況を如何に止揚・克服し、またその背景にある農民の土地への固執という本質的欲求を結集させ、飯沼干拓という地域総合開発計画を組織化することが大きな地域的課題であったのである。それは後述する飯沼干拓計画の主導者である、沼廻り有力名主層にとっても無視できないものであり、彼らの存在・行動の前提には、これら農民的エネルギーと地域的結集があったことは勿論である。そして、これらを燃焼させる画期となったのが、享保改革という幕政転換に基づく、新田開発奨励策にほかならなかったのである。