享保以前の飯沼干拓計画

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飯沼干拓計画が具体的に史料上から明らかになるのは、寛文九年(一六六九)のことである(『飯湖新発記上』)。この時、勘定奉行妻木彦右衛門と代官曾根五郎左衛門が実地検分のために沼廻りに出張して来た。幕府当局の直接担当者である勘定奉行と所轄代官が実地検分に来たということは、幕府が飯沼を新田化可能の地として把握したことを意味している。同年十一月には、沼廻り一二か村(仁連、平塚、恩名、東山田、逆井、山、沓掛、崎房、芦ケ谷、弓田、栗山、馬場)によって連判状が作成されている(『飯沼新田史料(二)』)。連判状の内容は、(一)飯沼新田開発は一二か村が一致連帯して行なう。(二)開発訴願の中枢に「御取持之衆」と呼ばれる沼廻り村々の有力農民が存在する。(三)開発成就の際には、「御取持之衆」に高四〇〇〇石の所持を認める。(四)開発に要する入用金は一二か村割とする。(五)一二か村は、この連判状の規定を相互に遵守する。
 飯沼新田開発の基本的な史料で、尾崎村秋葉勘蔵編の「飯湖新発記」には、当時の飯沼は沼廻り二三か村の「藻草秣魚猟入会に仕来たる空地」であったが、寛文九年に飯沼干拓を出願し、前記の勘定奉行と代官が実地検分に到来したと記されている。しかし、これ以後、宝永三年(一七〇六)に至るまでの飯沼をめぐる動向は詳細には記されていない。ただ、寛文九年に飯沼干拓訴願が開始され、その中核は前記一二か村であった。また、その後もたびたび出願されたが、沼廻り村々以外や遠国の願人も存在し、飯沼干拓訴願自体、「千変万化」の状況が続き、なかなか訴願の一本化がならず、事態は混迷の度を深めていったことがうかがわれる。
 なお、寛文九年の飯沼干拓訴願で注目されるのは、いわゆる連判状に記された「御取持之衆」である。彼らの氏名や人数は不明であるが、恐らく享保年間の干拓訴願に活躍する「頭取百姓」と同様な性格を持つ、沼廻り村々の有力名主層であったと思われる。また、当時の一二か村の領主支配は、『寛文朱印留』等によると、関宿藩(板倉氏)、壬生藩(三浦氏)、古河藩分知(土井氏)等に分轄統治され、きわめて錯綜した領有関係にあった。さらに、沼廻りでは、自然発生した干上り地や原野の境界をめぐる争論が頻発し、なかなか沼廻り村々が一致団結して飯沼干拓訴願を行なうということは困難であったと思われる。しかしながら、寛文九年に沼廻り一二か村によって連判状が作成され、支配領域を越え、かつ飯沼をめぐる利害対立を一応止揚しつつ、連合して飯沼干拓訴願に取りくもうとする体制が生まれたのである。勿論、この時点での沼廻り村々内部の状況等は不詳であり、飯沼干拓をめぐる農民たちの動向も判然とはしない。恐らくは、この時点では、沼廻り村々の有力名主層主導の訴願であったと考えられる。このことは、彼ら「御取持之衆」への特権付与規定が裏づけている。
 寛文九年(一六六九)についで、史料的に明らかな飯沼干拓計画は、宝永三年(一七〇六)のことである。また、これと軌を一にして宝永年間には、先の寛文元年以来の「入沼」干上り地をめぐる関係諸村の争論も増々過熱していった。宝永期の飯沼干拓訴願の動きは、宝永三年(一七〇六)六月、大口(現岩井市)、横曾根(現水海道市)、横曾根新田(同上)の沼廻り南端三か村が幕府勘定奉行所へ飯沼干拓を出願したことに始まる。三か村の出願内容は、従来からあった飯沼から鬼怒川への落し堀である「古堀」を浚渫し、飯沼の水を排水する干拓計画であった。これに対し、同月飯沼廻り一八か村(大生郷、古間木、鴻野山、馬場、栗山、尾崎、崎房、芦ケ谷、平塚、恩名、仁連、東山田、逆井、山、沓掛、弓田、馬立、幸田)は、鬼怒川への排水路として新たに落し堀=「新堀」を開削し、飯沼の水を排水する干拓計画を立案した。一方沼廻り村々の内、神田山・猫実両村(現岩井市)は、これら沼廻り村々の動きを静観する態度をとった。
 このように飯沼干拓計画をめぐる沼廻り村々の様相は、「古堀派」「新堀派」「静観派」の三派に分立していた。しかし、宝永三年六月の訴状には、「新堀派」の排水方式は、「唯今迄之悪水落シ堀之中途ゟ掘違」とあるように、当初の計画は、「古堀」を一部利用し、途中から分流させるというものであった(『飯湖新発記 上』)。それが同年七月十九日付の崎房村孫兵衛(秋葉氏)から代官宛に出された書付によって、「新堀」を掘削して排水する方式に転換されるのである。この書付は、孫兵衛個人によって提出されたものであるが、「新堀派」の具体的行動の始まりといえる。同月、代官飯塚孫次郎・川原清兵衛が実地検分に到来し、先の「古堀」を利用し、途中から分流させる排水方式は不可とされ、「菅ケ生下利根落シ之筋」の「新堀」を採用することが決定された。しかし、この宝永の飯沼干拓計画は、「御入用夥敷」という財政的理由により、ついに着工されることなく、計画のみに終わってしまったのである。このように宝永三年の飯沼干拓計画が挫折する一方、沼廻り村々では「干上り地」が年々増加し、「干上り地」の帰属をめぐっての争論が激化していった。
 これは、ある意味で本格的な飯沼干拓計画が挫折を余儀なくされた結果、新たな耕地獲得・拡大の方策として、眼前に生まれつつある「干上り地」に固執する、沼廻り村々の状況を反映したものであったともいえる。宝永四年尾崎村と崎房・馬場・栗山・鴻野山四か村との間で、地先の「沼谷原」の帰属をめぐって争論が起きている(日本大学寄託秋葉光夫家文書)。問題の「沼谷原」は、先の寛文元年(一六六一)の争論の舞台となった「入沼」に立地し、「入沼」は寛文元年の評定所裁定により五か村の「入会沼」とされていた。しかし、延宝四年(一六七六)には、崎房・馬場両村間で「沼谷原」の新開争論が起き、勘定奉行所での詮議の結果、「沼谷原」は、従来通り「五か村入会地」であり、今後とも許可なく新開することを禁止するとの裁定が下った。しかし幕府当局は、翌五年には代官手代を派遣し、新開部分の反別改めを実施している。この幕府当局の対応は、原則的には新開を禁止するが、現実的には既成の新開地を掌握するという相矛盾するものであった。
 この背景には、沼廻り村々における耕地獲得・拡大の欲求が顕著であり、現実、眼前に広がりつつある「干上り地」を前にして、農民たちも性分からいってただ手をこまねいているわけにはいかなかったのである。この結果、沼廻り村々は互いに「干上り地」を村高に編入しようとする動きとなって、衝突していったのである。この争論は宝永六年幕府評定所へ証文が提出され、沼廻り五か村の示談成立を条件に、「入沼」を干上げ、各村地先二〇間の新開と田地割りが許可された。幕府当局は、延宝四~五年に提示した「原則的には新開を禁止するが、現実的には既成の新開地を掌握する」という方針で対処している。つまり、延宝~宝永年間に「入沼」廻り村々による「干上り地」の新開進展という在地動向が先行し、幕府当局は、その既成事実を追認して在地掌握に努めたのである。
 宝永三年(一七〇六)の干拓計画挫折以後の飯沼廻りの状況は、必ずしも明らかではないが、干拓を願う村々の様々な行動と対応がみられる。「新堀派」の村々は「少不情」の状態であまり積極的な行動をみせなかったが、「古堀派」は、「江戸山師」を加え、「段々願続」けるという積極的な行動をみせている。「江戸山師」の実態は明らかではないが、前述の古間木沼干拓の際にもみられた江戸町人資本の参入と思われる。
 正徳元年(一七一一)に入り、飯沼廻りの状況に変化がみられるようになった。同年八月、古堀筋及び飯沼干上り地の検分に代官飯島八郎右衛門が到来した(『飯湖新発記 上』)。この際、「新堀派」と「古堀派」との間に一件がもちあがり、「新堀派」から「古堀派」へ「紛敷相対証文」が出され、「新堀派」にきわめて不利な状況になりかけたが、尾崎村五郎兵衛が証文を取りかえして焼却することで一応落着したという。この時に焼却された証文は、控が残されたというが、残念ながら未だ発見されていない。ただこの一件の最中、正徳元年八月、「飯沼新田」あるいは「飯沼弐番新田之儀」に関する文書が若干残存している(日本大学寄託秋葉光夫家文書)。同年八月、崎房村孫兵衛と横曾根村庄兵衛・弥惣治、横曾根新田武左衛門、大口村彦兵衛・権右衛門との間で、崎房村地先の干上り地分割についての証文が取りかわされており、また同月、大口村権右衛門・彦兵衛、横曾根新田武左衛門、横曾根村弥惣治、崎房村孫兵衛、逆井村彦右衛門、仁連町善右衛門、尾崎村五郎兵衛、鴻野山村次左衛門、栗山村与左衛門等、飯沼廻り村々の有力名主層の間で、「飯沼壱番新田」「飯沼弐番新田」の開発費用分担についての証文が取りかわされている。これら沼廻り村々の状況については、従来は飯沼干拓をめぐって「新堀派」と「古堀派」が明確に対立し、「新堀派」の結束も固かったように記されてきたが、正徳元年八月段階では、「新堀派」の中心的人物である崎房村孫兵衛と「古堀派」村々との間では、「新堀派」「古堀派」という結束にとらわれずに、地先の干上り地分割の証文を取りかわして耕地の獲得・拡大を意図していたのである(日本大学寄託秋葉光夫家文書)。「新堀派」「古堀派」という二つの党派は、干上り地の拡張と飯沼の排水方式をめぐる地理的要因や技術的問題等が複雑に絡み合い、しだいに党派の結束が強まり、相対立するようになっていったのである。享保二年(一七二三)「古堀派」は飯沼干拓を企て、代官堀江半七郎の実地検分を受けたが、「古浚にてハ新田に不相成」との裁定が下り、「古堀派」の掲げる排水方式自体、飯沼の干拓方法としては不適であるとして否定されてしまったのである(『飯湖新発記 上』)。
 飯沼廻りの村々にとって、沼の水を排水・干拓し、新たに広大な耕地を獲得しようとすることは、長年共通の願望であり、個々の農民にとっても父から子そして孫へと継承されていった「家」の課題にほかならなかった。そして沼廻り村々・農民は、課題克服の方策を模索し、加えて地理的・経済的・技術的諸要因が複雑に絡み合う中で、「新堀派」と「古堀派」の二つの党派結束が強まっていった。さらに江戸町人資本や遠国・他所からの干拓願人の参入等がみられるようになり、飯沼をめぐる状況は、より一層、混迷の度合いを深めていった。