享保十二年(一七二七)、同十三年の検地を経て、飯沼には新たに多くの新田村落が形成され、農民たちは恒常的な水との闘いに翻弄されつつも、生活の基盤を固めようと汗と泥にまみれながら耕作に従事していた。飯沼の新田村落は村請新田と名主一人請新田に大別されるが、村請新田では、その多くは本村農民が新田地の配分を受けて耕作に従事したが、名主一人請新田では、新たに入植者(入百姓)を募集し、耕作者を確保しなければならなかった。左平太新田は、新田頭取四人の一人である尾崎村名主左平太(秋葉氏)一人請の新田であるが、享保十二年九月の証文には、入植者(入百姓)は、主に「下作者」という待遇で入植し、左平太から新田地一町歩の小作地と二~三反歩の無年貢・無役地が与えられ、小作料は五割と明記されている(『飯湖新発記 上』)。享保十五年の証文には、同じく左平太新田に飯沼対岸の沓掛村(現猿島町)から「出百姓」として一七軒の農民が入植している。また左平太新田では、これら近隣からの入植者にとどまらず、遠く武蔵国から多くの入植者を募集する一方、村内に下妻町西当郷にあった西浄坊という新義真言宗の寺を引寺して村落の基盤造りに努めている(『飯湖新発記 下』)。崎房村名主三太夫の一人請新田である孫兵衛新田にも、沓掛村からの入植者がみられるが、享保十五年の証文には、源兵衛・小兵衛・権左衛門の三名が三太夫の「抱百姓」として入植している。源兵衛が沓掛村を離村し、孫兵衛新田に入植した理由は、年貢と女房の身代金にあてるため田畑屋敷を手離して潰百姓になってしまい、新天地を飯沼に求めて家族四人で入植している。小兵衛は、もともと田畑の所有が少なく、大世帯の家族をまかなうことができなくなり、家の財産を長男夫婦に譲り、残り家族五人を引きつれて入植した。権左衛門も同じく家を長男に譲り、残り家族七人を引きつれて入植した。彼らは、三太夫から中田一反歩と居屋敷二畝歩を自己所有地として貰いうけ、加えて一町歩余の小作地が与えられている(長命豊『飯沼新田開発』)。
このように飯沼新田への入植者の入植理由・出身地等も多種多様であったが、多くは一町歩内外の小作地と二反歩内外の自己所有地が与えられ新田の基盤造りに従事していたのである。しかし、まもなく彼ら入植者と開発請負者で「新田地主」である新田名主との対立・摩擦が生ずるようになった。享保十三年三月、左平太新田と五郎兵衛新田では、入植者たちが検地帳名請人の肩書に「左平太家抱」と記されていることに反感をいだき、中世的遺称である「家抱」の文字を削るようにと検地奉行に訴願した。この訴願が認められず、入植者たちは「田畑屋敷不残地主え相返シ元在所え罷帰度」と言い出す一方、左平太と忰五郎兵衛は「新田追払元在所え引渡申度」と言い出して、事態は険悪になってしまったが、入植者たちの在所に近い武蔵国大里郡村岡村の名主半右衛門が扱人として仲裁に入り、事態を収束に向かわせた。
この結果、「外(家)抱百姓と申名目致用捨、出作百姓と申名目」にすることで落着することになった(『飯湖新発記 下』)。これをうけて、左平太は入植者にそれまでの「家抱百姓証文」を返却し、新たに「出作百姓証文」を作成して新たな契約を結んだのである。しかし、この新たな証文作成によって、「家抱百姓」という新田地主左平太の個人的な人身支配は後退したものの、「出作百姓」という経済的な契約関係が確立し、左平太家の新田経営基盤を構築するに至ったのである。なお、先に左平太新田に沓掛村から「出百姓」として入植した一七軒の内、一六軒は新田に家らしい家を建てず、沓掛村に居住していることから左平太と出入争論になり、崎房村三太夫が仲裁に入り、全員左平太新田に移住することで解決した(『飯湖新発記 下』)。しかし、飯沼新田には多くの入植者たちが入ってきたばかりではない。また逆に新田から出ていかなければならない農民も多数存在したのである。彼らは、飯沼新田に活路と新天地を求め、汗と泥にまみれながら耕作に従事したのであるが、きわめて不安定な耕地条件に泣き、新田での農業経営にも行き詰まり、再度離村の道を選ぶことを余儀なくされた人々である。
一方、村請新田形式の新田の場合、当初の計画では沼廻り村々の大半が参加することになっていたが、中途から尾崎・栗山・馬場・鴻野山・仁連町の各村農民が飯沼新田を望まないとの意見を示し、この意見が村内の多数を占めたため、これらの村々は新田開発に村としては不参加を表明するに至った。不参加村々の大半は、長い間、飯沼干拓に積極的に取りくんできた名主や新田頭取を出している村々である。不参加の背景には、村内における彼らの微妙な立場や小前百姓の反発等、複雑な村内状況があったとも考えられるが、沼廻り村々では、これ以上の干拓工事費用の負担に耐えられない農民が多数を占め、さらに新田の安定耕地化への猜疑心も根強く、投資や労力を忌避したかったとも考えられる。このことは反面、これら村々の名主や新田頭取たちを奮起させ、飯沼干拓新田に対する強い執念にも似た行動・実践を生んだのである。この象徴的存在が名主一人が干拓参加の意思を貫徹し、本来ならば村が負担すべき費用等を名主一人でもって負担して出来た名主一人請新田である。このような状況を目の当たりにして、先に不参加を表明した村々の内、馬場・鴻野山の両村が新田開発事業の進展状況に、安堵感と期待を見い出し、参加を再び希望してきた。この結果、途中から両村名主の一人請新田に移行していた両村配分地が再び村請新田へと再移行していったのである。
享保十一年六月には、遠国や他村からの入植者たちによって徐々に形成されつつあった名主一人請新田の内、尾崎村左平太請、横曾根新田取上地の左平太買請、同神田村延命院請、仁連町善右衛門請、同長左衛門請等を新たに一村立てしたい旨の出願をした。一村立て出願の背景には、本田と新田とが交錯し紛わしくなっていること。新田引請の居村より離れて新田があること、一人請のため、やがては多くの入植者によって耕作しなければならないこと等があったのである(長命豊『飯沼新田開発』)。やがて、一村立ての願いは認められ、のちには勘助新田(現岩井市)、平八新田(同上)、伊左衛門新田(現水海道市)等も認められている。左平太請は左平太新田、横曾根新田取上地の左平太請は、忰の五郎兵衛の名をとり五郎兵衛新田(現水海道市)となり一村を形成することになった。一方、村請新田は、本村農民一同に新田地を配分割して耕作しているため、一村立てにする理由もないので本村の持添新田にすることが認められている。
このように飯沼には多くの新田が形成されていったが、新田の現実は、入植者たち、あるいは飯沼干拓を推進してきた新田頭取・各村名主や幕府当局の期待を裏切り、新天地には程遠かったのである。飯沼新田の大半は、宝暦年間~天保年間に至る約九〇年間、「年々不作」、「引続き皆無引」といった全く作付けができない耕地が数多く発生し、折角、莫大な費用と労力、そして沼廻り村々農民の知恵をしぼって達成された飯沼新田も耕地の大半が荒地と化してしまったのである。荒地化した最大の要因は、新田一帯の排水がうまくいかず、毎年のように耕地が水損を受けたことにあった。飯沼干拓に際しては、沼水の排水が最重要視され、排水路開削には多くの費用と労力を費やした。しかし、この排水路の基本設計段階には大きな誤算があった。この誤算とは排水路設計の段階で、飯沼と排水先である利根川との水位差を十分に検討しないまま、開削工事に着手してしまったことである。井沢弥惣兵衛ら幕府当局者及び沼廻り村々の飯沼干拓推進派の人々は、飯沼と利根川との水位差を平水位時を基準にしたのである。つまり数年乃至数十年単位の洪水時の水位上昇を看過していたのである。しかし、これを設計ミスだと責めるわけにはいかない。当時の土木技術面及び財政面での限界であった。このため、利根川が出水するたび排水路を通じて飯沼新田に水が逆流し、新田一帯が冠水することもしばしばであった。加えて飯沼川・東仁連川・西仁連川の排水能力の限界、さらには、天明三年(一七八三)の浅間山噴火にともなう大量の火山灰堆積の影響を受け、利根川床の上昇が顕著となり、飯沼新田への逆流に拍車をかけていった。この結果飯沼新田一帯は、慢性的水害常習地と化し、新田農民は次第に疲弊して離村者も続出し、村々の荒廃化が進んでいく。そして、新田に残った農民たちの水との苦闘は、明治以後それも戦後に至るまで、長く続くのである。