酒造

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当町の地場産業について見る時、最も重要なものとして酒造があげられよう。ただ、史料の制約を受けるため、その成立から現在にいたる流れを正確に追うことはできないが、ともあれ、江戸中期にはすでに酒造が盛んに行なわれていた。
 さて、一般に酒造は古代より醸造され、中世には酒屋役は幕府の重要な財源の一つとなった。江戸時代になると大坂の鴻池で灰汁投入法が開発されて清酒が造り出され、各地に広まり名産地が出現した。なかでも寒仕込みの製法を発明した摂津・伊丹・灘などは有名で、本場の酒として江戸に下り物として送られ、江戸消費の約七割から八割を占めていた。下り物に対してこのほかの物を地廻りと称し、その土地で生産する酒を地酒ということは周知の通りである。
 寒仕込みの酒造は複雑で、水麴に冷やした蒸米を混ぜ山形に盛り上げて、櫂で磨りつぶして酛(洒母)を作る。酛に米・麴・水を加えて醪を作って仕込み、醗酵の終った醪を木綿袋に入れて大きな酒槽に重ね、天秤仕掛けで圧搾して酒を搾る。酒造は消費文化に支えられて発展し、醸造の規模の拡大をうながした。醸造が拡大してくると杜氏・頭・衛門・酛廻・上人・追廻・飯焚などの醸造過程が分業するようになった。杜氏は農間期の出稼ぎとして定着するようになり、雪国や山国の冬期に農民の長期移住が行なわれた。酒造の発展は一部の商人の経済力増強による生活の向上を招いた。
 そこで幕府はこれを阻止する目的から奢侈禁止を出すとともに、米が材料であることから米価の調節が必要とされ、明暦三年(一六五七)酒造株の制定を行なった。さらに、造石高の制限を決め、課税の対象として運上金を上納させることとしたのである。もっとも諸藩では一早く、江戸初期から酒運上とか酒役銀などの名目で酒造に課税していた。税率は売値の三分の一とし、かわりに価格を五割引き上げさせた。これは元禄十年(一六九七)以降定制化された。こうして得た収入は年額約三〇万両にのぼったという。この年収をみても、全国的規模で盛んに酒造りが行なわれていることが理解できよう。その証拠にこの頃になると酒造は一部の生産者ばかりでなく、農村内部にも小規模ではあるが酒造業者が現われ、次第に経営を拡大させていったのである。
 

Ⅳ-1図 酒倉(山中直次郎家)

 当町に残存している史料のなかで最も古いものが、丁度酒運上が制度化された元禄十年前後のものであることも興味深い。向石下の増田務家所蔵の元禄六年四月七日の文書は、名主増田次兵衛が酒道具を古河大町の庄左衛門から金九両で買い取ったとあり、手付金一両を支払った旨が記されている。また、次兵衛は同年七月二十六日にも上州新田領矢田堀村恩田勘兵衛から酒道具名代を買い取っている(増田務家文書)。目録の内訳は酒名代 高二五石、四尺桶 四本 金一両二分、坪台 二本・飯切 七枚 金一分二五〇文であった。こうして、次兵衛は全国的に酒造が盛んになりだした元禄初期に、各地から酒名代と道具を買い取り、地酒造りに成長していったものと思われる。
 そして、酒運上が制度化された元禄十年の丑十二月十九日には、酒三〇石に対し酒役五割の運上として金一五両を差し出すよう命じられ「当月中 金五両、来寅ノ三月中 金五両、同 七月中金五両」という三回の分割払をすることを確約している。また、元禄十三年寅ノ正月十二日には丑年の極月分の酒運上金五両を上納した。つまり酒運上の上納方法は、造った年の造高に対して五割の税を負担するため、元禄十二卯年三月一日に「寅之酒運上」、同十三年辰ノ三月二十八日に「卯之酒運上」、同十四巳年九月二十三日に「辰之酒運上」というように次年度から分割で支払う仕組みになっていた。ちなみに元禄十年から十四年までの造高はⅣ-1表のごとくであった。
 
Ⅳ-1表 元禄10年から14年までの洒造高
酒造高本 造
元禄10年丑米高35石米2石1斗  
  11年寅〃 30石米1石8斗  
  12年卯〃  6石米  3斗6升
  13年辰〃 15石米  9斗  
  14年巳〃  6石米  3斗6升


 
 また、元禄十四年に巳年の「酒造惣高 米六石」を届出た証文に「尤此ものゝ外ニ酒造申者壱人も無御座候」と明記されており、向石下村では次兵衛方のみが酒造を一手引き受けていたことがわかる。そして、次兵衛は元禄十五年に父仁兵衛の隠居により、酒造株を正式に請取り家業を継いだ旨を公儀に届出ている。
 さて、この頃本石下村での酒造はどのような状態であったのか、新井家所蔵文書からみてみよう。当家に残存している酒造に関する文書のなかで最も古いものが、元禄十六年未八月のものである。これは孫七という者が酒名代を所持して酒造を行なっていたが、進退不如意となり、酒造を閉業し道具類を親類に貸していたが、再度造酒を行ないたいと願い出たものである。また宝永元年(一七〇四)申六月二十五日のものは、谷沢五郎左衛門が酒道具を八右衛門と伊左衛門の二人に売り、その残金を確かに受け取ったという請取証文である。道具代は「合金 拾両」であった。したがって、孫七・八右衛門・伊左衛門など、本石下村においても元禄期に地酒を複数で造っていたことがわかる。谷沢五郎左衛門は八右衛門や伊左衛門のほかにも酒道具を売っており、同年九月十六日付けで道具代残金の金二両二分を受け取っている。なお八右衛門と伊左衛門の名は文化五年の「村差出明細帳」に、「酒株百五拾石 当時相休八右衛門、同百廿石 同 伊左衛門」と見えている。
 ともあれ、元禄期には盛んに酒造が行なわれていたようであるが、天明年間に至るまでの史料が欠けているため、この間の状況は定かでない。天明七年(一七八七)に「酒造株書上」が名主(新井)五郎左衛門・茂右衛門の連名で出されており、「株高 二十石 酒造高 六百石」で冥加永五〇〇文を上納していたとある。つまり、この頃には名主である五郎左衛門も酒造を行なっており、有力農民層が地場産業に着手していることをうかがわせる。
 茂右衛門については、寛政七年(一七九五)卯正月に出された造酒株の書付の中で、「江州蒲生郡鋳物師村 日野屋茂右衛門」と書かれており、近江の出身者であることが明らかである。これは近江商人の進出が当地にもおよんでいたことを示唆していよう。同関連文書によると、五郎左衛門はこれまで造酒商売を営んできたが、蔵・道具などが大破したため屋敷・造酒株・蔵・諸道具などを、卯八月(寛政七年)より丑八月(文化二年)までの一〇年間の年季を限って貸し渡すこととした。貸金は前五年間は一年間に金三両宛、のち五年間は一年間に金五両宛と定めた。
 こうして日野屋は株主(新井)五郎左衛門から寛政七年に
 
  株高 二十石(天明六年までの造高六〇〇石余であったが寛政六年より三分の二の四〇〇石となった)、造
  大桶 十本・造五尺桶 二本・造四尺桶 十四本・〆二十六本 外に澄酒入大桶 四本・待桶四尺桶 一
  本 水桶四尺桶 一本・上溜四尺桶 五本・米漬桶四尺 四本・粕桶 三本
 
以上を、借り受けて当地でも有数の新興商人へと成長していった。文化三年には造高も再び六〇〇石にもどり、ますます勢力を不動のものとしたものと思われる。たとえば、領主興津氏は財政難を救済する目的で有力農民や新興商人から多額の借財をするが、文政八年の「御賄取極議定書」をみると、日野屋は四六二両で「御奥 五百両」に継いで二番目の大口貸付者となっており、その財力のほどが偲ばれよう。また天保九年(一八三八)の「酒造御用留」には、茂右衛門と並んで「若宮戸村 酒造人 豊吉」の名が見える。