Ⅳ-3図 街道関係地図
ちなみに助郷(すけごう)とは、江戸時代に宿駅常備の人馬に不足が生じた場合に、宿駅近隣の農村から村高に応じておこなわれた人馬の徴集である。徴集に際しては御定賃銭が支給されたが、交通量の増大に伴う助郷強化・徴集地域の拡大・物価の上昇などが農民生活に重くのしかかった。助郷の詳述は第八章第三節にゆずるが、慶応四年(一八六八)の本石下村には、戸数七二軒・人口三七七人(うち男は一八四人)に対して、馬は二一匹所有しているにすぎなかった(新井清家文書)。
当時陸上交通以上に重要だったのが、鬼怒川の水運である。大正末年まで鬼怒川を往来する白い帆をかけた高瀬舟の見聞は今に伝わるが、その具体的資料を当地で探しだすことはなかなか困難となっている。
Ⅳ-4図 高瀬舟(鈴木亮三氏提供)
現在の河川状況をみると、江戸時代にはたして船が通れたのであろうかと疑問を生じるが、現在のわが国河川の水量はあまりに少なくなっていること、通船のための川掘り作業をやめてしまったことにより、川は深くなるよりも川幅が広がり浅くなった。とくに鬼怒川はダムができ、その上岩盤が出るほど砂が掘りつくされ、いたるところに柳や葦などの茂みが見られ、その間を水がチョロチョロ流れる状態からは、水運盛んであった往時を偲ぶことは困難となっている(横島広一『鬼怒川物語』)。