鬼怒川通り

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鬼怒川に沿った陸上交通路は、水戸街道の小金宿(現柏市)から西へ折れて、布施(同市)で利根川を渡り、戸頭(現取手市)、守谷・水海道・石下・宗道・下妻・下館・結城を経て、下野から奥州へとぬけていくものであった。とくに武家や寺院方の通行がある際には、宿駅では人馬の継立(つぎたて)をしなければならなかった。石下でも、水海道から継来た人馬は、本石下・中石下・上石下の三石下村が責任をもって宗道・下妻へ継立て、下妻・宗道より継来た人馬は、新石下村が責任をもって水海道へ継立てるといった具合に、上りと下りとで人馬継立の労役を分担しあっていた。なかでも、延享三年(一七四六)の山形から佐倉(千葉県)へ移封された堀田正亮の大通行の際には、石下村ばかりではとても人馬が足らず、周囲の村々五〇か村に助郷を頼むほどであった(新井清家文書)。
 

Ⅳ-3図 街道関係地図

 ちなみに助郷(すけごう)とは、江戸時代に宿駅常備の人馬に不足が生じた場合に、宿駅近隣の農村から村高に応じておこなわれた人馬の徴集である。徴集に際しては御定賃銭が支給されたが、交通量の増大に伴う助郷強化・徴集地域の拡大・物価の上昇などが農民生活に重くのしかかった。助郷の詳述は第八章第三節にゆずるが、慶応四年(一八六八)の本石下村には、戸数七二軒・人口三七七人(うち男は一八四人)に対して、馬は二一匹所有しているにすぎなかった(新井清家文書)。
 当時陸上交通以上に重要だったのが、鬼怒川の水運である。大正末年まで鬼怒川を往来する白い帆をかけた高瀬舟の見聞は今に伝わるが、その具体的資料を当地で探しだすことはなかなか困難となっている。
 

Ⅳ-4図 高瀬舟(鈴木亮三氏提供)

 現在の河川状況をみると、江戸時代にはたして船が通れたのであろうかと疑問を生じるが、現在のわが国河川の水量はあまりに少なくなっていること、通船のための川掘り作業をやめてしまったことにより、川は深くなるよりも川幅が広がり浅くなった。とくに鬼怒川はダムができ、その上岩盤が出るほど砂が掘りつくされ、いたるところに柳や葦などの茂みが見られ、その間を水がチョロチョロ流れる状態からは、水運盛んであった往時を偲ぶことは困難となっている(横島広一『鬼怒川物語』)。