野村河岸

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しかし江戸時代、鬼怒川水運は大消費都市江戸へ農産物や商品を運びだす大動脈だったのである。この近隣では宗道河岸・水海道河岸が、周辺農村地域から搬入された諸産物の船積み河岸として有名である。石下でも、新石下の野村河岸問屋が安永年間(一七七〇年代)には成立している。
 天保八年(一八三七)の野村家の屋敷図をみると、鬼怒川堤より往来までの東西三六間(約五五メートル)、南北一二間(約二二メートル)の敷地のなかに、主屋・土蔵・文庫蔵・納屋・店など一〇軒余の建物がならぶ堂々たる構えの船積み問屋であった。ただし残念なことに、野村家には当時の経営の様子を伝える史料はなく、唯一明治五年(一八七二)の「前歎願書写」に経営の一端を推測させる内容が記されているだけである。
 

Ⅳ-5図 野村家屋敷図(野村英治氏蔵)

 その史料をみてみよう。
 新石下村の野村甚右衛門は、安永年間の幕府による河岸場船積稼の者への冥加金(みょうがきん)(営業税)上納令以来、毎年三〇〇文を上納しており、かわりに御廻米(江戸へ運送する米穀)は勿論のこと、隣村から津出しする荷物運送の商売も手がけてきて明治五年現在に至った。ところが、本石下村の竹村茂右衛門(日野屋)が、新規に河岸場船積稼ぎをしたい旨の申請を役所にだし、追々商売を始めたとの風聞もある。当村のような小さな村に新規の河岸は必要なく、もし二軒が並びたつようになっては当家の生活がままならなくなってしまう。第一竹村は、酒造・醬油造・質屋・穀物売買など営む上に、近村に三、四軒酒造出店をもつまれなる富商なのだから、あらたに船積問屋商売などする必要はない。どうか竹村の新規河岸問屋の申請は認めないでほしい、と役所に訴えでたものである(野村英治家文書)。
 鬼怒川上流の結城市内の河岸は、元和から寛永期(一六一五~一六四〇)には利根川水系の内陸水運の一環として整備・確立されたといわれるから、安永期から商売を始めたとする野村河岸は、鬼怒川水運のなかにあってはそう古い方には属さない(『結城市史』)。明治五年の史料だけに、このまま江戸期の石下河岸の状況とはしがたいが、野村河岸がとりあつかう物資は米穀・木材などに限定されており、宗道河岸と水海道河岸とにはさまれていることから荷物量の増加がのぞめなかった。こうした事情は江戸期と明治期を通じて大きな変化がなく、野村にとって新興の竹村の進出は、河岸問屋存立上の最大の脅威となったわけである。