渡船場

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江戸時代には河川に橋を架けることが規制されていたから、鬼怒川・小貝川にも橋はなく、対岸をつなぐ重要な役割をはたしたのが渡船場である。
 万延元年(一八六〇)の鬼怒川筋渡船場取締覚には、石下村組合内には四か所の渡船場があり、うち二か所は農業渡船とある。ここでいう石下村組合とは、現在の石下町から千代川村・下妻市内にわたる鬼怒川旧河道東側の二七か村をさす。また、嘉永元年(一八四八)の石下村二七か村組合麁(あら)絵図から確認できる渡船場は、本石下と新石下の村境と対岸の向石下を結ぶもの、若宮戸村と皆葉村を結ぶもの、本宗道村と鎌庭村を結ぶものの三か所である(新井清家文書)。
 

Ⅳ-6図 石下村27か村組合麁地図(新井清氏蔵)

 対岸との人と物の往来が船一艘頼りの時代に、現在のような鬼怒川東部地区と西部地区の往来は当然望めなかった。したがって、岡田地区の古村の景観をみても、鬼怒川東岸に沿う形で北から国生村・向石下村・篠山村・蔵持村と形成されており、また陸路ののび方をみても、鬼怒川沿いに北へは皆葉河岸(現千代川村)へ、南へは花島河岸(現水海道市)へと通じており、西へは荒地や新開地をぬけて鴻野山村を通り、孫兵衛新田河岸へと通じているにすぎず、一艘の舟だけが東部地区への交通手段だった。
 本石下と新石下の村境と向石下村とを結ぶ渡船場は、現在の石下橋の向石下側のたもとと、流れを少し下った住吉屋前の細い通りが堤にぶつかった地点とにあった。本石下村の文化五年(一八〇八)村差出明細帳には、渡船場の管理・運営が次のように記されている。
 
   鬼怒川の川幅約二〇〇間余(約三六〇メートル)、砂川、ただし渡場一か所が当村地内にある。渡船が一
  艘あり、船頭が二人いて、向石下村に住んでいる。船頭の給金は、本石下・中石下・上石下・新石下・向
  石下の五か村の惣百姓が船頭との相談で、夏と秋に米穀を集めて支払う。船の建造・修理は右五か村でお
  こなう(新井清家文書)。
 
 

Ⅳ-7図 向石下村3か村田畑村絵図(増田務氏蔵)

 この渡船場の利用状況は、当時どのようなものであったか、興味ひかれる。幸いにして、万延元年三月の桜田門外の変に際しての鬼怒川筋渡船場取締りの史料から、その利用状況を知ることができる(詳細は第八章第一節)。新井省三氏作成のものがⅣ-2表であるが、九日間の平均は四一人程度であるが、厳重取締りの期間中だけに普段はもう少し多いと思われる。また、女性の利用者数が九日間でわずか一一人というのも、現在では理解しがたい数字であるが、川ひとつとはいえ、当時それだけ女性の遠出はめずらしいことであったのだろう。
 
Ⅳ-2表 桜田門外の変につき渡船取締中渡船人数調べ
月 日内   訳月 日内   訳
3月 7日東より
西より1人(ただし夕刻より)
1人3月12日東より11人
西より5人
16人
3月 8日東より19人内女3人
西より14人馬2匹
33人3月13日東より20人内女3人馬3匹
西より46人内女5人帯刀1人
66人
3月 9日東より6人
西より48人馬1匹
54人3日14日東より2人
西より24人
26人
3月10日東より13人
西より18人
31人3月15日東より6人
西より51人
57人
3月11日東より14人
西より36人
50人3月16日東より18人
西より22人
40人
新井 清家文書(新井省三氏調査)

 
 次に、東側(三石下村側)と西側(向石下村側)との利用者数をみると、東側より西へ渡る者は平均一二人であるのに対し、西側から東へ渡る者は平均二九人と、圧倒的多数をしめている。利用者の階層は九割強が百姓であるが、東側から渡船してくるもののうちに、わずかに商人がまじっている。利用者の出身地をみると、東側から渡船するものは、石下地内の村々と筑波郡内の村々が多く、西側から渡船するものは、岡田・飯沼の村々は勿論、広く八千代・水海道・岩井・猿島郡内の村々にわたっている。
 渡船場を利用するこうした人々の往来から、江戸末期の鬼怒川東岸の町方としてのにぎわいを推察できるが、同時に宗道・下妻と水海道にはさまれながらも、筑波郡から猿島郡の東西に細長くひろがる、地域経済の市場としての石下の役割も、うきでてくるといえよう。