彼らに自然の豊かさを提供してくれる飯沼も、交通の面からは彼らを狭い地域に閉じ込めた。現在の飯沼地区の中央に位置する鴻野山村などは、「南北西三方湖ニシテ、東ニ往来のみニテ、中くびれの瓢(ふくべ)の形ニ似タリ」といった状況だった。したがって、なにかにつけて足を船に頼らざるをえなく、当時は「家数八十三軒、人数四百八十三人、作馬七十匹とならんで、大船三十艘、猟船八十五艘」を一村で所有していた(秋葉紋子家文書『鴻山実録』、秋葉いゑ子家文書『鴻山実録』)。
周囲を飯沼をはじめ、入沼・瀬戸沼・古間木沼などの大小の湖沼に囲まれた飯沼地区に大変革が起きたのは、享保九年(一七二四)から始められた飯沼新田干拓事業によってである。周囲の湖沼は次々と干上がり、荒砂の地があちこちに出現し、それまでとれた魚猟も藻草も一切とれなくなってしまい、それに追い打ちをかけるように干拓の雑費が人々の生活を苦しくした。一方、新田地には周囲の村々や下総国葛飾郡・武蔵国幸手領などから入植者(入百姓)があいつぎ、「飯沼廻り」の景観は一変する。
Ⅳ-8図 飯沼廻り54か村麁絵図(秋葉光夫氏蔵)