飯沼川への通船

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飯沼新田開発が一段落した享保二十一年二月、孫兵衛新田名主三太夫、左平太新田名主左平太は、仁連町名主善右衛門とともに「飯沼中悪水通船御願」を代官に提出しているので、その内容をみておきたい。
 飯沼廻りの村々は、鬼怒川・利根川から距離があり、両河川や小貝川まで出向くだけでも百姓の負担は重い。そこで飯沼中悪水堀に船を通せば、仁連町積荷場から江戸まで三五里半(約一四二キロメートル)、晴天の日であれば四、五日で五〇から一〇〇俵の米を江戸に運ぶことができる。また、今までは遠い河岸まで馬の背で荷を運んでいたが、通船可能となれば村々から船積みできるようになり、村々からとれた丸太・材木・竹・薪・茶の類も江戸へ津出しできる。船賃は安くなる上に収入もふえ、百姓の生活が楽になることは確実である。近在の諸荷物請払場として、仁連町・平塚村・孫兵衛新田と左平太新田・神田山新堤下にそれぞれ一か所ずつ、合計四か所の河岸の設置を認めてほしい、というものであった(大石慎三郎編『飯沼新田史料』)。
 また同年、仁連・谷貝両町より正式に付送らない荷物は、境河岸で請払いしない旨の熟談証文をとりかわしたのにもかかわらず、境河岸問屋が約束を守らないと、先の仁連町名主善右衛門が訴えでているので、あわせて内容をみておこう。
 仁連町は古来より宿場として、奥州道中荷物の取り扱い業をしてきたが、近年荷物の往来が減少し、年間一万駄余の荷物量だったものが、二、三〇〇〇駄ほどになってしまった。この原因は飯沼新田開発の結果沼の中に近道ができて、村々の百姓が自分の荷を宿場を通さず、勝手自由に境河岸まで付越(つけこし)してしまうせいである。さらに境河岸問屋も、付越して持ち込まれる荷物を、古来からの近郷宿場の立場も考えず、請払いしてしまう。どうか右の新道を停止し、境・谷貝の問屋の不正を吟味してくれるようにと、奉行所に訴えでている(『飯沼新田史料』)。
 以上の二つの史料は、飯沼新田開発にともない、「飯沼廻り」の水上・陸上交通の流れが大きく変わりはじめたことを教えている。史料中に登場した仁連町(現三和町)は、「飯沼廻り」の北部に位置する。当時、北関東あるいは奥州方面から江戸へ向う諸荷物は、奥州街道と鬼怒川が交差する氏家宿と白沢宿(いずれも栃木県)の間で街道をそれ、鬼怒川の河岸である阿久津・板戸河岸(いずれも栃木県)などから船積みされて鬼怒川を下り、下流西岸の久保田・中村・上山川・山王(いずれも現結城市)の河岸に水揚げされる。それより陸路を送られて、大木宿・諸川宿・仁連宿・谷貝宿を通って、境河岸から再び船積みされて、多くの荷物や人々が江戸へ到着した。この大木宿から境河岸までの五宿に上山川宿と山王宿を加えて、「境通り七か宿」とよんで大変にぎわった(川名登『河岸に生きる人びと』)。
 飯沼新田開発にともない発生した新しい交通の流れは、旧来の境通りの交通に変更を迫ったのである。このことは当然、旧来からの宿駅制の特権の上に安坐していた宿駅問屋層の人々からすれば、看過することのできぬ由々しき問題となったわけである。
 飯沼中悪水堀の水運は、新田の人々によって発展させられていった。文政二年(一八一九)には、栗山新田外組合七か村の廻米一六四俵を孫兵衛新田問屋直七・左平太新田問屋勝五郎・鴻野山新田組頭甚七郎らが運送を請負っている。また嘉永四年(一八五一)、同六年にも同じく廻米運送を左平太新田の船主喜三郎・問屋竹左衛門、孫兵衛新田の問屋直七らが請負っている(秋葉いゑ子家文書)。すなわち、こうした人々が「飯沼廻り」の交通を支えたわけである。