孫兵衛新田の河岸

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新田の人々の活躍がめだつなかでも、とくに重要な役割をはたしたのは孫兵衛新田の河岸(崎房河岸)である。孫兵衛新田は飯沼新田の開発に伴い、崎房村名主秋葉三太夫(秋葉家は代々三太夫と孫兵衛とを交互襲名)の個人請新田として成立した。崎房村と孫兵衛新田とは当初沼で隔っていたものの、徐々に人々の家も建ち、農作業の必要から沼中に築越(つきこし)堤がつくられた。ところが、筑波・笠間・下館方面から関宿・幸手・越谷へぬけるのに便利がよく、さらに江戸への近道との噂もたって、「江戸中通り」とよばれるようになり、だんだん人馬の通行も足繁くなった(秋葉光夫家文書)。
 寛政三年(一七九二)、仁江戸村(現八千代町)の兵助が通った江戸中通りの道順を記してみる。仁江戸から出発して、馬場→尾崎河岸(左平太新田河岸の意)→沓掛→根古内→上弓田→岩井→長谷、ここで利根川を越えて、中里→岩名、今度は江戸川を越えて、魚沼→松伏→大川戸→大沢→越ケ谷→草加→千住→浅草→日本橋と、仁江戸からほぼ垂直に地図の上を南下していくと近道の江戸中通りとなる(八千代町 高野偉家文書)。
 安政二年の「飯沼廻り」の絵図をみると、飯沼には古間木新田・左平太新田・孫兵衛新田などから七本の築越堤が対岸へのびている。飯沼中央に位置する孫兵衛新田から沓掛村までの築越往来の距離は、三六〇間(約六四八メートル)と記されている。普段は長さ二四間(約四三メートル)の大橋を渡って対岸へ行くが、出水のひどい場合などには一二文の船賃を払って渡船を利用した(秋葉光夫家文書)。