近世の農村は、幕藩体制下における支配の末端組織であり、村請制が示すごとく年貢納入の単位ともなっていた。同時に農村=村落は、村人たる農民にとって、日々の生活を維持し農業の再生産を可能にする最も基本的な組織体であった。村落は通常その内部が幾つかに区分され、さらに治安や法度、触の遵守、年貢皆済、キリシタン禁制などの連帯責任の義務を負った五人組に細分化されていた。そして村落は最小単位ともいうべき家によって構成されるものであったが、名主・組頭・百姓代などの村役人層を頂点として、諸階層に分かれていた。しかしその中核は年貢納入の義務を負う本百姓であったことはいうまでもない。
つまり、近世期の農村は支配の末端組織であるとともに、農民自身の生活を維持するための共同体的性格を備えていたのであり、村役も末端の支配者であると同時に、村運営の責任者であった。
そうした意味においては、村人たちも年貢や助郷の義務、法度や禁制の厳守だけではなく、村を維持するための取り決め・祭祀・共同労働・相互扶助がなされてきたのである。たとえば、慶安二年(一六四九)の畠中村「連判之事」には、作物を日暮から取ってはならないこと、畑の茶の実を定められた期限以前にとってはならないこと、堂宮や屋敷にある杉の板、雑木を伐ってはならない、堤の草を刈り取ってはならないなど、非常に細かな事柄が決められている(増田務家文書)。また本石下の天保十四年(一八四三)の議定には「御屋敷様御用向は勿論、其の外諸割合など都て寄合参会触出し候節は、刻限の通り遅参なく出会仕るべき事(中略)万一此の上頼合もこれ無く不参致し候ものこれ有り候はば過怠となし、村用定使役日数三日と為し相勤め申すべく筈、一同評議取究申し候」とある。こうした議定などは、村落維持のための取り決めであったとみることもできよう。