村仕事

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村人たちが共同で行なわなければならなかった労働、つまり村仕事の代表的なものは、道路、橋、堤、用水などの普請であった。文政四年(一八二一)の栗山村新田「村鑑明細帳」には
 
  一 上橋  但[長八間横七尺]  壱ケ所
    是は当村ニて諸色人足差出し仕来り候
  一 用水樋  弐カ所
    是は伏せ替一式村役仕来り申し候
 
などとある(秋葉いゑ子家文書)。こうした記載からも橋の修理や用水樋の伏せ替えが村役、つまり村共同の仕事とされていたことがわかる。しかし伝承によれば、道普請や用水ざらい(堀ざらいともいう)などが村仕事としては最も一般的なもので、崎房の場合には、十二月や春彼岸の頃に一軒一人ずつ出て道普請を行ない、用水ざらいは関係する家々が年一回草刈り、溝の掘りなおしに出たという。こうした道普請や堀普請は、毎年定期的に行なわれてきたものであるが、数か村にまたがる用水などは、数か村がそれぞれの持ち場を取り決め、共同で行なう場合も少なくなかった。
 しかし、共同労働は毎年定期的に行なわれるばかりではない。洪水や台風などの天災に見舞われることもすくなくはなく、そうした場合の臨時の復旧作業が村総出で行なわれたことは推測するに難くない。また干魃の際に行なわれる雨乞いも、村総出で行なわれる仕事の一つであり、天保十年(一八三九)の「覚帳」には、日照りが続いたために、六月十三日に雨乞いをしたことが記録されている(秋葉いゑ子家文書)。