前述の通り、近世村落の内部は幾つかに区分され、さらに五人組に細分化されていたが、小保川村が伝える最も古い伝承では、村内部が東・中・西の三つの坪に分かれ、さらにそれが九つの組合に分かれていたという。崎房の場合も、南坪・西山・北新田の三つに分かれており、嘉永元年(一八四八)に上石下・西原両者で結んだ議定に「上石下西原両坪一同」とか「西原組・上石下組」などと記されているところからすると、村の内部区分の一つを坪あるいは組と呼んでいたと思われる。そして伝承でみる坪あるいは組単位で寄合がもたれていること、蔵持のように「葬式はツボ切り」と称して葬式の扶助組織となっていること、崎房南坪があらゆる面でまとまりを示していること等々を勘案すれば、近世期においても坪が、日常生活を維持するための村内部の重要なまとまりとなっていたと思われる。