一方五人組についてみると、文化五年(一八〇八)「小保川村五人組帳」では、全二七か条にわたって農民が守るべき禁制が書き上げられ、その後に、六人組が二組、四人組、五人組各三組、都合八組三九人が押印している。また文久四年(一八六四)の本石下村「五人組帳」には、七人組が一組、六人組が六組、五人組が六組、四人組一組、都合一四組七八軒が押印している。小保川の伝承では、先に述べたように九組合が最も古い時代の組合の数であったという。組合という呼び方は「小保川村五人組帳」にもみえ、蔵持の伝承でも五軒組、六軒組という組織があったという。こうしたことからみて、伝承の組合は近世の五人組の系譜に連なり、小保川では文化年間以降、戸数の増加によって組合が一つ増加したものと理解できよう。
「小保川村五人組帳」の前文には、御条目の趣を守ること、家業を第一に勤めるべきこと、悪事をしない様に五人組で常々詮議することなど、全二七か条の条項が挙げられており、領主側にとっては、農民支配のための組織とみることができる。しかし五人組に系譜を負う組合が、婚姻や葬式の手伝いをはじめ、屋根葺、田植え・稲刈りなどのイイトリ(結)、さらには、産育・婚姻・葬送などの贈答など、各種の扶助を行なっており、そうした手伝いや贈答の慣行が近世期五人組の間でも行なわれていたとみるべきではなかろうか。このほか、本家分家、親戚などの間で相互に助け合いがなされていたことはいうまでもない。
Ⅴ-1図 五人組帳(浅野茂富氏蔵)