こうした点は、不祝儀についても同じことがいえ、弘化四年(一八四九)の「香銭帳」によると、村内の者四九人より金一分と銭二貫五二〇文分が贈られているが、このうち銭二〇文、一〇〇文、丁五〇文を渡した者がそれぞれ二一人、一〇人、一三人となっており全体の九割を占めている。これに対して村外の者四一人が渡した金額金一両二分二朱と銭三貫七八六文のうち、一〇〇文が八人と最も多く、次いで二朱及び二〇〇文が各六名、三〇文と五〇文が各五名となっておりその金額の差が大きい。また「香銭帳」には「ほかい」として、六人の者から白米一升(二人)及び五升(四人)の都合二斗二升が贈られている。一方葬式にかかった費用は金二両四朱と銭八貫一二〇文であった。
右のような「御祝儀覚帳」や「香銭帳」の金額からみて、江戸時代の終り頃で、村人の祝儀・不祝儀の金額の相揚がそれぞれ一〇〇文と二〇文程であったこと、不祝儀の場合、不足しているとはいえ、香奠によってかかった費用の大半が賄われていることなどがわかる。つまり、祝儀よりも香奠の方が援助としての意味合いが大きかったといえよう。しかし、結婚の費用におよそ一〇両程を費すことができる家は、一般に財産家といわれるような、内でも上層の家とみるべきではなかろうか。
Ⅴ-2図 御祝儀覚帳(草間良信氏蔵)と香銭帳(浅野茂富氏蔵)