近世期にはすでに水苗代が普及しており、水の取り入れやすい所に苗代を作った。苗代ごしらえは、本田の代作りと同様であるが、蒔き代の場合には古株や固まりがないように苗代シメまたはコスリという道具を使って特に入念に作ったものであった。
種籾は前年良く育った稲からとり、唐箕を強くたてて選別し、種俵やカマス(叺)に入れて鼠に喰われないように、天井から吊しておいたものである。種蒔き前には種籾を発芽しやすいように、イケスや桶水に一〇日から一五日位種漬けしておいた。
種蒔きは「籾種春土用中より蒔き」(享保十五年 孫兵衛新田「村鑑指出帳」)とあるように、現在の四月十七日頃を目安に苗代に播種(平蒔き)していたが、特に卯の日、酉の日、不熱の日だけは避けられた。その播種量(一定の面積に栽培するのに必要な種子量のこと)は、享保十五年には「一反歩に付き一斗の積もり」(前掲史料)だったのが天保十五年になると「籾、壱反歩に付き八升」(同村「村鑑明細帳」)と減少している。このことは農業技術の発達の一面を示すものであろう。つまり、天保年間のころまでは浸種法によって籾種を水に漬け発芽させてから播種していたが、これでは芽が出て絡み合ってしまい欠損率が高いので多量の籾が必要であった。天保の頃になると種漬けの期間を短くして、籾の芽が膨らむ程度にして播種する技術が普及して、種籾の量も少なくてすむようになったのである。しかし、今日の播種量約四升に比べれば、なお技術的に劣っていたといえよう。
蒔き残った種籾は焼き米にして苗代の水口に供えたり家族が食べたりしたということである。