田植え

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農事の中で最も重視されたのが田植え仕事であり、単なる農作業というよりむしろ祭事と意識されていたようである。田植え初めを苗立てといい、代搔きが終わった翌日から始めた。天保八年から五年間の田植え初めを「覚帳」(秋葉家いゑ子文書)で見てみると半夏生(夏至から一一日目に当たり、現在使用している太陽暦でいえば七月二日頃)を基準として、二六日から二二日前(播種後四二日目頃)に始めていることが分かる。また、孫兵衛新田「村鑑指出帳」(享保十五年)にも平年の場合「はんけ(半夏)前より土用入り迄仕付け申し候」とある。
 田植えの期間の定めはないが、「田方植付証文書上帳」といった用水組合の史料には田植えの記事が多く、その一例である文化十年(一八一三)の原用水組合の場合は、本石下村の五〇町二反九畝四歩と中石下村の一一町二反八畝一七歩の「当反夏田方植え付けの儀苗代時節より用水潤沢仕り、五月十二日より植初め六月十五日迄壱畝壱歩残らず取り植え付け相済み、大小の百姓一同有難き仕合せに存じ奉り候」と用水に恵まれ約一か月間で田植えが終了している(「差上申田方植付証文之事」新井清家文書)。しかし、こうした年ばかりでなく日照りや渇水で遅れる年もかなりあり、農民を苦悩させた。
 さて田植え仕事はまず苗取りから始める。苗を当日夜明けから「両手でむしり取るようにして両手が一杯になったら根の泥を落とし、左手に持ちかえ、右手で一杯になるまでとり三摑み重ねて一束とした」(鴻野山新田の事例)。「一反歩の苗は二百束位」(新石下の事例)であったという。取った苗束は底の浅いカチキカゴ(カセギカゴ)と呼ばれる籠に入れて天秤で担いだり、背負い籠で運んだものである。
 主としてソウトメ(早乙女)と呼ばれる女性たちが田植えをして、代ごしらえや苗くばりの作業を男たちが受け持つことが多かった。近世期の田植え法は「廻しパカ植え」「ヤタラ植え」という乱雑植えであって、「数人の植え手が並んで代の左からU字形に代をまわって植える方法で外廻りの植える者をハナパカと称し、これには熟練者があたる。未熟者は程度により、それぞれの距離の短い内廻りを植え、いずれも後退しながら植えていく」(『田植えの習俗2 茨城県』四四頁引用)という方法であった。その際には、おもしろおかしい文句の田植え唄が歌われていたようである。
 田植えには一度に多く人手が必要であったので、イイドリ(又はイエドリ=結取り)という村親戚や隣同士で相互に労働交換する慣行があった。また、大きな農家では苗取りから田植えまで他人に請け負わせる場合もあり、これを田渡しといった。
 

Ⅴ-5図 田植風景