先に述べたように水稲は、適当な水が必要であることはいうまでもないが、年によっては水不足で難儀することも多かったようで、これに関する史料は数多く残っている。
天保十年(一八三九)の「覚帳」には、四月五日以降日照りが続き、六月十三日に雨乞いをしたにもかかわらず降雨がなく、六二日目の七月九日にやっと雷雨があり、人々をほっとさせたとある。これよりもさらにひどい被害の例をあげると、栗山新田の文化四年(一八〇七)八月の願書によれば、「当夏田方の儀は当春苗代時節より照り続き、用水引き入れなど多方に人夫相係り候ても用水養育相成らず、并びに田方植え付けの儀可成り植え付け候儘にて、何ケ年にも覚えざる稀成る照り続き日増しに日枯れに相成り、大小の百姓一同難儀至極に仕り候、七月六日夜少々雨天御座候ども稲草日枯れに相成り、実法の程覚え付き無く存じ奉り候」(秋葉いゑ子家文書)とあるように、日照り続きで用水が得られず、植えた稲が枯れてしまったことが記録されている。
こうした時には、「覚帳」の天保十年六月十三日「雨乞い正月」の記事にあるように、神仏に雨乞いの祈願をしてひたすら降雨を待つ他なかった。この方法には幾つかの段階があったようで、当町の民俗伝承によれば、まず村内の神社の境内で太鼓を叩いたり鉦を叩きながら念仏を唱えて、降雨を祈ったものであるという。それでも降らない場合には、作神や水神の性格を持つ、つくば市金村の別雷神社・通称雷神様に村の代表がお参りして、お札と神水を授かって来て、その水を井戸水で薄めて笹の葉につけて田に振り掛けたという。その結果うまく雨が降ったらオシメリオコトといって仕事を休み、神仏に感謝したものである(前掲『蔵持の民俗』)。
干ばつの他にも「当六月中より引き続き何か年にも稀成る不順の冷気にて早稲中稲まで阿以死多分にて取実格外減少仕り」との、文政八年の岡田郡八か村の願書(秋葉光夫家文書)の例が示すように冷気(冷害)の被害も深刻であったし、大雨や台風などの天災もしばしば受けていた。天明元年(一七八七)七月の孫兵衛新田の場合を見ると「六月下旬より度々大雨にも水相湛(たた)え候上、七月十二日昼夜の大風雨なおまた十六日の大雨にて沼内一面に押し開き、その上利根川・鬼怒川満水込み上げ、もちろん鬼怒川の儀逆上留関枠か所押し破り仁蓮川堤数カ所切り所でき押し込み候に付き、去る子(安永九年)夏出水より二尺余り多水にて田畑諸作残らず水底に罷り成り、百姓の家居まで水上がり仕る。作物の儀は何にても決して用立て申さず難儀至極に仕り候。尤も十八日の頃田方水丈八尺に御座候」と洪水の模様が役人に報告されているが、こうして冠水した稲は水腐りして壊滅的な打撃をうけた。特に当町は鬼怒川・小貝川と利根川本流が合流する近くに位置していることから、水害に見舞われやすかったのである。人知の及ばぬ天災は近世期には度々発生して飢饉を招き、農民を困窮させていたのであり、雨乞いや天念仏の信仰などを通して、ひたすら神仏に加護を願ってきたのである。